[#表紙(表紙.jpg)] ホーム アウェイ 森村誠一 目 次  不幸の二重奏  文明の流刑地  囚人のいない檻《おり》  暴走した団地  孤独な先死者  最後の一窓  失踪《しつそう》した隣人  勇気ある行動  集団の殺意  |道をはず《オフロード》した証拠  完全な毒素 [#改ページ]  不幸の二重奏     1  泣きっ面に蜂というたとえがあるが、不幸のダブルパンチ、トリプルパンチがある。  そこは二十年ほど前までは、東京の外れと言ってよかった区内の端に当たるある私鉄沿線の駅から、徒歩十数分の距離にある住宅地である。  駅を中心に形成された商店街が切れると、空き地や畑をつぶして、小住宅が立ち並んでいる。いずれもサラリーマンが七所借《ななとこが》りをして建てたようなちまちました住宅が、狭い敷地を小刻みに分け合って、ぎっしりと埋めている。その間に安手のプレハブアパートが進出している。  外国人から、うさぎ小屋と嘲《あざけ》られても、サラリーマンの一生の成果としての一戸建てマイホームが、安普請に精一杯工夫を凝らし、猫《ねこ》の額のような庭を侍《はべ》らせて、いじましい自己主張をしているように見える。  新興住宅地であるが、古い土地柄を示すように、忘れられたような場所に古い社《やしろ》があり、境内に鬱蒼《うつそう》と樹林が繁っている。  昼は住人たちに乾いた風景の中のオアシスのような潤いをあたえるが、夜は社のかたわらを通勤コースにしている者には、少し不気味である。  それでも昔は場末であったのが、いまは区内と言えば、羨《うらや》ましがられる。  そんなある区内の一隅で、五月中旬の深夜、事件は発生した。  終電から下車した乗客は、すでに灯を消した駅前商店街から八方にばらけて、十分も歩くと、同一方向に向かっていた人影も見えなくなった。  急におもいだしたように通過する車も、人気のないのを幸いにスピードを上げている。こんなとき接触すれば、轢《ひ》き逃げされてしまうであろう。  終電を下車した彼女は、帰路を急ぎ足に歩いた。彼女の家は社の裏手にある。二十メートルほど社に沿った寂しい道を歩かなければならない。  こんなに遅く帰ることはめったにないのであるが、今夜は結婚退職する同僚の送別会があって、遅くなってしまった。  駅前のタクシー乗場は長蛇の列で、歩いた方が早い。少し遠まわりをすれば、家と家の間の路地を通れるのであるが、通い慣れた道でもあり、ここまで来て迂回《うかい》するのは億劫《おつくう》であった。  痴漢もこんな遅くまでは待ち伏せてはいないだろう。彼女は馴《な》れと疲労もあって、社のかたわらの寂しい道を進んだ。駅に下りたときは、よく晴れて月が覗《のぞ》いていた空は、いつの間にか真っ黒に塗りつぶされて雲行きが怪しくなった。  闇が一層濃くなった。頭上を境内の樹冠が覆ったのである。  小走りに走り過ぎようとしたとき、突然、地中から湧いたように黒い人影が進路を遮《さえぎ》った。ぎょっとなって立ちすくんだとき、黒影は手に持った凶器を彼女に突きつけていた。  悲鳴をあげかけた口を脂っこい手が塞《ふさ》いで、冷たい刃身で首筋をぴたぴたと叩《たた》かれていた。 「声を出すな。騒ぐと、この可愛い顔がチャックになるぞ」  黒影は押し殺した声で彼女の耳にささやいた。脅迫の言葉がなくとも、冷たい凶器の感触が、彼女に一切の抵抗の姿勢を失わせた。 「こっちへ来るんだ」  黒影は意志を失ってしまったような彼女を、社の境内の最も濃く闇がわだかまっている方角へ引きずり込んだ。  闇の中で彼女は犯された。飢えた狼は、はからずも捕えた美味《おい》しい獲物を、小骨一本残さぬように貪《むさぼ》り尽くした。  ようやく満足して狼が彼女の身体から離れたときは、彼女の下半身は麻痺《まひ》したようになっていた。  いつまた狼が舞い戻ってくるかもしれない。恐怖がよみがえった彼女は、境内から逃げ出した。股間《こかん》から生ぬるい粘液がしたたり落ちている。  やや広い通りへ出かけたとき、彼女は背後に足音を聞いた。また狼が追いかけて来たとおもった。  恐怖でパニックに陥った彼女は通りに飛び出した。そこへ深夜、無人の街路に加速した車が通りかかった。  タイヤが路面と噛《か》み合って悲鳴をあげ、一瞬立ちすくんだ彼女の身体は宙に浮き、路面に叩きつけられていた。  遠方から駆けつけて来る足音が逆に遠のき、彼女の意識は暗黒に沈んだ。     2  少年は幼女と仲がよかった。なんの理由もないのに、突然いじめの対象とされた少年は、その幼女と一緒にいるとき、地獄のような学校の生活を束の間忘れることができた。  少年に対するいじめは、決して暴力を用いない。クラス全員が彼に口をきかない。彼の方に視線を向けていても、彼を見ていない。視線は彼を飛び越えている。  まったく無視、あるいは存在しないものとして扱っているのである。  ホームルームで発言する。なんの反応もしない。掃除当番を休んでも、だれも文句を言わない。  野球やリレーのチームに加わっても、加わることは拒否しないが、初めから期待していない。つまり、チームのメンバーとして認めていないのである。  たとえばトイレに入る。彼のトイレは専用である。彼が使用した便器は、クラスの者はだれも使わない。  少年には、なぜ自分がいじめの的とされるようになったのか、まったく心当たりがない。少年にとってそれは不可抗力による災難のようなものであった。  少年は先生や両親に、いじめられていると訴えることもできなかった。訴えて救われるようなものであれば、いじめは存在しないであろう。  大人社会のように、被害者が加害者を訴えたり損害賠償を求めるような制度は、子供の世界にはない。子供の世界は純真という仮面の下に、弱肉強食の残酷な無法社会がある。  いじめに遭《あ》っても、それを救済する機関や法はなく、いじめから逃れる方法は三つしかない。  一つは登校拒否、二つめは転校、それができない者はあの世への逃避、すなわち自殺である。  しかし、少年の場合は加害者にいじめの意識はないかもしれない。彼らは少年に対して有形の行為はなにもしなかった。  暴力を振るったわけでもなければ、悪口雑言を浴びせたわけでもない。衆人環視の中で恥をかかせたこともない。ただ、少年を存在しないものとして扱っただけである。  被害者にしてみれば、存在しながら存在しないものとして扱われるのは、最大級の侮辱であり、いじめにほかならないが、存在感というものは本人がつくりだすものである。  存在感がなかったので、目に入らなかったと言われれば、それまでである。これはクラス全体が共謀しての一種の完全犯罪であった。  全級が共同して少年の人格を無視し、存在価値を否定し、存在しながらしないものとして葬り去ってしまった。  それに対して、少年は訴えることも抗議も抵抗もできない。生きたまま葬られた悔しさを、凝《じ》っと噛みしめたまま、うずくまっている以外になかった。  石や草やゴミですら、場所をあたえられているが、少年はうずくまっていても、その位置すらあたえられていなかった。  少年と仲がよい幼女は少年の近所の家にもらわれてきた養女である。養親としっくりいっていないらしく、いつも一人で寂しげにしていた。  養家から幼稚園に通っているらしいが、幼稚園にも友達はなさそうで、帰って来ると一人でぽつんとしていた。  色白で下ぶくれの愛らしい幼女で、幼くして実親《じつおや》から引き離された寂しげな陰翳《いんえい》を面差しに刻んでいる。  幼女は常に赤い手鞠《てまり》を身体の一部のように持っていた。独りぼっちの寂しさを、その鞠と分け合っているようであった。  少年と幼女は疎外された寂しさを共有するように、どちらからともなく寄り添った。  学校と幼稚園から帰って来た二人は、いつも一緒にいるようになった。周囲の者も、べつにそれをなんともおもわない。  少年と幼女の親も、たがいに友達ができたことを歓迎していた。二人が友達になった動機まで詮索《せんさく》はしない。ある意味では、彼らの家族も、少年と幼女に無関心であった。  少年が残酷ないじめに耐えられたのも、幼女の存在のおかげであったかもしれない。また幼女が養親としっくりいかなかった心の隙間《すきま》を埋めたのは、少年の存在であったかもしれない。  少年と幼女の関係は半年ほどつづいて、突然、終止符を打たれた。  五月下旬の夜六時ごろ、幼女の養父から、幼女が帰宅しないという訴えが、最寄りの警察に出された。  その日、幼稚園から帰宅して、近所の仲良しの少年の家に遊びに行った。午後三時ごろ、おやつを食べにいったん帰宅した後、ふたたび出かけて行って、帰って来ないということであった。  少年に事情を聴いたところ、幼女は午後三時に帰宅した後、来なかったということである。  八方手を尽くして幼女の行方を捜索する一方、誘拐の疑いが持たれて、捜査員が犯人からの連絡を待ち、幼女の家に待機した。だが、犯人からはなんの連絡もなかった。  翌日午後二時ごろ、幼女の死体がその家から数キロ離れた用水路の中で発見された。  いまはほとんど無意味になった灌漑《かんがい》用水路は幅六十センチ、深さ約五十センチ、側壁も底もコンクリートで固められており、少し上流の泉を起点として、かなりの水量が勢いよく流れている。  用水路の上には、コンクリートブロックの蓋《ふた》がかけられているが、ところどころに隙間がある。  幼女はこの用水路の近くで遊んでいて、隙間から用水路に落ち込み、水流にさらわれて流されたらしい。  以前、猫が用水路に落ちて死んだことがあったが、子供の事故は初めてである。少年はたった一人の友達を失ってしまった。 [#改ページ]  文明の流刑地     1  鶴川《つるかわ》家が初めてその団地に入居して来たときは、家族一同、歓声をあげた。  まず、五LDKの広さに目を瞠《みは》った。しかも、そのうちの三部屋が南側に面している。リビングは十二畳、ダイニングは八畳、四人家族が一人ずつ私室を取ってもお釣りがくる。  南側のベランダに立つと、奥高尾《おくたかお》の山々が迫り、団地の周辺には自然が溢《あふ》れている。建物は緑に埋まり、窓から流れ込む風にはかぐわしい花の香りが乗っている。 「凄《すご》いな」 「私、一生の間に、こんな素晴らしい家に住めるなんておもわなかったわ」 「なんだか、釣り堀から海へ出たような気分だよ」 「オフロードカーで山野を目いっぱい走れるぞ」  四人はそれぞれ勝手なことを言い合っていたが、新しい住居と環境に最高に満足していることは一致していた。  実際、これまで押し込められていた、たった二間の窓を開ければ隣りの家の壁が視野を塞《ふさ》いでいる非人間的な民間アパートに比べれば、釣り堀どころか、水溜《みずた》まりから海へ放されたような気分である。  早速、付近の探検に出かけた次男の正明《まさあき》が、目を輝かして帰って来た。 「大変だよ」  彼は興奮しているらしく、しばらく次の言葉が出てこない。 「なにが大変なんだ」  長男の正彦《まさひこ》が問うた。 「裏の雑木林はカブトムシの巣だよ。見て。こんな凄いのがクヌギの木にうようよいるんだぜ」  彼は手に持った大型のカブトムシを掲げて見せた。 「凄いな。採り集めて、一匹百円ぐらいで売れば、いい|稼ぎ《バイト》になるぞ」  正彦が目を光らせた。 「すぐそういうことを考える。せっかくの自然だから、大切に保護しなければ駄目よ」  母親の奈美江《なみえ》がたしなめた。  やがて夜になると、視野の限り星屑《ほしくず》が空を埋めた。 「こんな凄い星空を見たのは久し振りだわ」  奈美江はベランダに立ってはしゃいだ。 「東京には空がないという詩があったが、東京の空に星があることを忘れていたよ」  夫の正一《しよういち》も奈美江の声につられて、ベランダに出て来た。  まだ団地の建物は入居者が少ないらしく、灯《あか》りの点《つ》いている窓はまばらである。  深々とした闇が全棟を包んでいた。話しやめると、鼓膜が圧迫されるような静寂が落ちる。夜気に花の香りが煮つまって、漂っている。 「ずいぶん暗いのね」  隣人や、近所の騒音に悩まされ、商店街のイルミネーションが空を染めていた以前の居住環境に比べて、別天地である。 「まだ入居者が少ないからね。そのうちに賑《にぎ》やかになる」 「束の間の静寂というわけね」 「いやいや、入居者が増えたところで、高が知れている。近くにパチンコ屋や鍛冶《かじ》屋が引っ越して来ない限り、ゆっくりと眠れるよ」 「それにしても、窓の灯が少ないわね」  奈美江は改めて団地の建物を眺めた。ほとんどの窓が暗い。  一棟、平均三十二世帯、四階建ての建物が三棟並行して建っているが、灯の点いている窓は数えるほどである。 「この三棟が第一区で、間もなく第二区、第三区の建設が始められる予定だ。完成すれば、全二十棟の大団地となる予定だそうだ」 「まさか、その中にパチンコ屋や鍛冶屋はないでしょうね」  奈美江が不安げな表情をした。 「まさか。この団地の基本コンセプトは自然との調和だよ。だから、団地建設のためになるべく環境を損なわないように考慮されている。駐車場のスペースも制限されている。駐車場が当たらない者は車の持ち込みができない。早く入居した者の勝ちだよ」 「でも、こんな辺鄙《へんぴ》なところで、マイカーを持ち込めなかったら困るでしょう」 「なに、すぐにバスが運行される予定だ。学校、幼稚園、スーパー、銀行、郵便局、診療所、交番などもつくられる予定になっている。スーパーを中心に商店街もできるそうだよ」 「あんまり便利になっても味気ないわね」 「まあ、それは便利になってから言おう」  鶴川一家が入居したのは、東京都H市域の高尾山に近い丘陵を開いて建設された分譲住宅である。  都心へのアクセスに不便で、駅まで距離があるのが難点であったが、その豊かな自然環境と優秀な設備、リーズナブルな分譲価格に、一家は一も二もなく飛びついた。  鶴川の通勤にはやや不便になったが、家族の幸福のために我慢しなければならない。  まだスーパーが開店しないので、当分の間は市内まで買いだしに行かなければならない。  鶴川は新都心にある中どころの商事会社に勤め、正彦は都内にある私立大学の三年生、正明は中学二年生で再来年受験である。この新環境は正明の受験勉強にはプラスに働くだろう。  入居して数日間は、近所の探検に過ごした。そして、ますます彼らはこの地が気に入った。  波のようにたたなわる丘陵は、密度の濃い森林や雑木林に覆われ、林床や丘陵の間に深く入り込んでいる谷間《たにあい》には、四季折々の植物が多彩である。  平板な平野と異なり、何万年の時の匠《たくみ》が大地に刻み込んだ起伏は、地形に変化をつけ、風景の彫りを深くする。一家のマイカーであるオフロードカーも、渋滞の激しい都会の舗装路から解放されて、その本領を発揮していた。谷間や山陰には忘れられた古寺が埋もれている。  朝は野鳥のさえずりで目が覚める。近くを流れる清冽《せいれつ》な小川には、十数種の川魚やザリガニやタニシなどが豊富である。ちょっと足を延ばせば高尾山である。  窓を開け放せば青い風が吹き通り、夏でも冷房がいらない。 「H市は暑いところと聞いていたが、こんなに涼しいとはおもわなかったね」 「寝冷えをしないように気をつけてね」  家族は嬉《うれ》しい悲鳴をあげた。  周囲の探検と並行して、近隣の入居者に挨拶《あいさつ》に出向いた。  現在、鶴川家に最も近い隣人は、同じ一号棟同じ階段の三階、一三〇二号室に入居している日野《ひの》という中年の夫婦である。一棟三十二世帯、四階建八世帯毎に一つの階段で縦割に構成されている。  だが、何度か訪問しても不在らしく、応答がない。朝、郵便受けに入っていた新聞が取り込まれているところを見ると、長期の留守ということではないらしい。  ようやく日曜日の午後、何度かチャイムを押すとドアが開かれて、寝ぼけ眼の日野の細君が顔を出した。  いままで眠っていたらしく、髪は乱れ、目はどろんとして寝ぐさい息を吐いている。下着のままのだらしのない恰好《かつこう》で、訪問した鶴川夫婦の方が目のやり場に困った。 「今度、同じ階段の一四〇一号室に入居しました鶴川と申します。ご近所になりますので、よろしくお願いします」  鶴川が丁重に挨拶してタオルを差し出すと、 「あら、こんな辺鄙なところに入居して来るなんて、酔狂だわね」  と言って、タオルを受け取った。 「変な人ね。自分だって同じ団地に入居しているんじゃない」  挨拶をして帰って来た奈美江は憤慨した。  せっかく理想的な住宅に入居できたと舞い上がっていたところに、水をさされたような気がして鼻白んだ。 「きっと昼寝をしているところを起こされて、機嫌が悪かったんだろう」  鶴川がなだめた。 「あれは昼寝という恰好じゃないわよ。本格的に寝ていたみたい。一体、あのお宅、なにをしているのかしら」 「きっと夜の仕事なんだろう。あんまり詮索《せんさく》しない方がいい。まだ数少ない貴重な隣人だからね。気まずくなると住みにくくなる」 「そうね。べつにおつき合いする必要もない人ですもの、気にしないわ」  奈美江は気を取り直した。  同じ棟には、日野家の他、一階一一〇八号室に豊島勝治《とよしましようじ》、四階一四〇六号室に深井《ふかい》ミノ、二階一二〇四号室に村岡秀紀《むらおかひでき》、四階一四〇三号室に矢沢恵子《やざわけいこ》が入居していた。  全棟三十二戸のうち、入居者はいまのところ鶴川家を含めてこの六世帯だけである。  豊島、深井、村岡はいずれも七十代後半から八十前後と見える老人であった。団地の竣工《しゆんこう》後、彼らは相前後して入居してきた。 「なんだかお爺《じい》ちゃんとお婆ちゃんばっかりね」  三人に入居の挨拶をすませた後、奈美江がつぶやいた。  だが、奈美江の認識は一四〇三号室に挨拶に行って少し改められた。矢沢恵子は鶴川に初対面とはおもえないような馴《な》れ馴《な》れしげな応対をして、鶴川をどぎまぎさせたようである。恵子の全身には成熟した色気がこぼれ、なにげない仕種《しぐさ》にも男を誘い込むような蠱惑《こわく》がある。 「あの女、きっと水商売だわよ。あなた、誘惑されては駄目よ」  一四〇三号室から帰って来ると奈美江は警戒の色を浮かべた。 「なにを言っているんだ。たまたま同じ棟に住んでいるというだけじゃないか」  鶴川は苦笑した。だが、いかにも男好きのする女のにおいに、奈美江は敏感に危険な気配を嗅《か》ぎ取った。鶴川の矢沢恵子に会ったときの反応も気にかかっている。鄙《ひな》には稀《まれ》な女性を見つけて愕《おどろ》いたのか、挨拶の言葉もしどろもどろであった。     2  ともあれ、鶴川一家の新住居における生活が始まった。  豊かな自然に恵まれた理想的な住宅での生活は、日々カルチャーショックの連続であった。  彼らはこれまで、これほど豊かな自然に囲まれ、一日中、日光の射し込むゆったりとした間取りの部屋に住んだことがない。  家族のプライバシーなど望むべくもなかったこれまでのうさぎ小屋というよりはねずみ小屋のような家から脱出して、一人一人の個室をあたえられた。  彼らは新住居に来て、家族間にもプライバシーがあることを初めて知った。  それぞれの部屋でプライベートな時間を持った後、食事やテレビに、ダイニングやリビングで家族一同顔を合わせるのが、また新鮮な喜びである。  だが、新しい生活環境がよいことばかりではないのに、彼らは次第に気がつき始めた。 「あなた、ゴミが来ないのよ」  入居して約一ヵ月後、奈美江が訴えた。 「ゴミが来ないって?」  鶴川にはその意味が咄嗟《とつさ》にわからなかった。 「週一回の予定のゴミの収集が来なくなっちゃったのよ」 「それはどうしてだい」 「住人が少ないので、忘れちゃったみたい」 「忘れた?」 「あるいは故意に収集ラインから外してしまったのかもしれないわ。週一回でも少ないのに、全然来なくなったら、いくら入居者が少なくても、ゴミ置場が溢《あふ》れちゃうわ」 「それは困ったね。早速、市の方に交渉しよう」  鶴川が市に苦情の電話を入れて、ようやく収集作業が再開されたものの、とぎれとぎれである。  ゴミには一般ゴミ、不燃物、資源ゴミ、粗大ゴミがあるが、一般ゴミの収集だけで、不燃物や資源ゴミ、粗大ゴミの収集にはまったく来ない。それはそっちで勝手にやれという姿勢である。  市としては、辺鄙《へんぴ》な場所の上に、住人が少ないので、きめ細かい収集ができないのであろう。 「そう言えば、まだ税金を払ってなかったのじゃないかな」  鶴川が自分に言い聞かせるように言った。  引っ越し前後の忙しさにかまけて、まだ住民基本台帳の転入手続きまでは手がまわっていない。 「すぐに手続きをするわ」  ゴミに引きつづいて、子供たちがテレビが見えないと言い出した。  地形の関係か、NHKと民間テレビが二局ほど見えるだけで、あとのチャンネルの映りが悪い。  そのうちに直るだろうとおもっていたが、映像はますます悪くなる一方である。  そこへ凄《すさ》まじい落雷があってから、頼みの綱のNHKも見えなくなった。  町の電気屋に見てもらったところ、落雷によって放送経路に故障が生じたらしく、有線《ケーブル》に切り換えないと駄目だと言われた。  だが、町からケーブルを引くとなると、莫大《ばくだい》な費用がかかる。入居のために全財産を注ぎ込んだ後なので、そんな余裕はない。 「仕方がない。当分はテレビなしで我慢しよう」  鶴川は家族に言い渡した。  今日の人間にとってテレビなしの生活は、一種の拷問に等しい。そこへもってきて新聞がこなくなった。  入居者に新聞を購読する者が少なく、鶴川家一軒のために、遠路の配達をする者がいないということである。 「仕方がないな。一日遅れになるが、ぼくが毎日、通勤途上買って来よう」  鶴川が言った。  テレビなし、新聞は一日遅れという生活に、ようやく鶴川一家は、この自然の恩恵に溢れた日光とスペースのふんだんな新しい住居が、物質文明から切り離された一種の流刑地であることに気がついた。  入居後、三ヵ月しても、スーパーは開店しなかった。スーパーに伴って開店予定であったアーケード街にも、一店も入居しない。  一向に増えない団地の入居者に、スーパーが足踏みし、商店が右へならえをしている。  学校や幼稚園は夢のまた夢である。診療所、郵便局、交番の構想は、どうやら幻想に終わってしまったらしい。  せめてバスでも通ってくれれば、辛うじて文明の末端につながっているような意識になれるのであるが、待てど暮らせどバスは来なかった。  鶴川一家は一台、マイカー(オフロードカー)を持っていたが、鶴川が駅までの通勤に使用してしまうと、他の家族は陸の孤島に置き去りにされた。  やむを得ず一台乗用車を買い足し、さらに、自転車を二台購入して、正彦と正明は通学に、奈美江は町までの買物やその他の用事に使用した。  だが、団地が波のようにうねる丘陵地帯の山腹に造成されているために、駅へ出るまでに二山も三山も越えなければならない。  特に団地へ至る坂が急|勾配《こうばい》で、雪でも降ると車はチェーンを着けないと登れなくなる。 「豊島さん、深井さん、村岡さんは買物は一体どうしているのかしら」  奈美江は首をかしげた。  鶴川家では休日にマイカーでまとめて食料品や日用品を、町のスーパーから購入して来るが、車を持っていない三人の老人たちは、どうやって必需品を買い出しに行くのか、不思議であった。 「ほかの家のことを心配することはないさ。まとめ買いをして、タクシーで運んで来るんだろう」  鶴川が言った。 「でも、身動きできる間はいいけれど、あの人たち、かなりのお歳よ。動けなくなったらどうするつもりかしらね」 「時どき身内が見に来ているんだよ。きみが心配することはない」 「身内らしい人が訪ねて来たのを見たことがないわ。あの三人には本当に身内がいるのかしら」  奈美江の顔色が懐疑的になった。 「ぼくたちが気がつかないときに来ているんだよ。悠々自適、余生をだれにも煩わされずに自由に楽しんでいるんじゃないのかな」 「余生を自由に楽しんでいるようには見えないわ」  奈美江の目には、生きているのかいないのかわからないように、終日ひっそりと閉じこもっている三人の老入居者が、自由な老後を楽しむためではなく、足手まといとして家族からこの団地に捨てられたような気がした。  そのような目で見ると、この団地は恰好《かつこう》の姥捨山《うばすてやま》である。 「おつき合いはないけれど、二棟、三棟の入居者もお年寄りが多いようだわね」  隣棟の入居者が杖《つえ》にすがって周辺を散歩している姿を時どき見かけるが、いずれもかなりの年配であった。  リタイア後、夫婦が寄り添って入居している姿は微笑ましいが、老後の独り暮らしは、荒涼として寂しく見えた。  もしかしたら、彼らの家族は簡単には抜け出られないようなこの文明果つる団地に、ほんとうに老人たちを捨てたのかもしれない。  改めて団地とその環境を見直してみると、五LDKの間取りは座敷牢そのままで、自然の豊かな環境は文明から切り離された原初の風景に見えた。  新たな入居者は一向に来なかった。団地の窓の灯は増えるどころか、かえって目減りしているように見える。  老人たちは夜は早々と寝てしまうらしく、入居している部屋までが、夜になると闇に閉ざされてしまう。     3  入居数ヵ月後のある日曜日、奈美江は衝撃的な光景を目撃した。光景というよりは事件と呼ぶべきかもしれない。  その朝、入居後初めて大型トラックが団地の構内に入って来た。トラックの横腹には、ある大手運送会社の名前が書かれていた。 「あなた、ようやく入居者が来たわよ」  窓からそのトラックを見下ろしていた奈美江が、鶴川に弾んだ声をかけた。  この陸の孤島に、一軒でも入居者が増えることは、先住の人間にとって嬉《うれ》しい。 「どれどれ」  鶴川も窓辺に身体を乗り出した。  トラックは隣棟の前に停まった。トラックの幌《ほろ》が開かれた。 「おや、荷台が空っぽだよ」  鶴川が訝《いぶか》しげな声を発した。  鶴川夫婦が見守っている前で、隣棟の出入口から箪笥《たんす》、冷蔵庫、テレビ、ヘアドレッサー、テーブル、ベッド、本箱等の家具が次々に運び下ろされてきた。 「あれ、入居でなくて出て行くんじゃないのか」  鶴川が驚いた声を発した。 「まさか。まだこの団地、できたばかりよ」 「できたばかりでも、事情があって出て行くんだろう」 「いやだわ、少ない入居者がますます少なくなっちゃうわ」 「仕方がないさ。それぞれの事情というものがある」 「あなたはここへ移って来てから、仕方がないとばかり言っているのね」 「仕方がないよ」 「ほら、また言った。私、なぜ引っ越して行くのか、聞いてみるわ」  立ち上がった奈美江に、 「やめておきなよ。他人の家の内輪の事情に首を突っ込むもんじゃない」  鶴川は呆《あき》れた顔をして制止した。だが、奈美江はそれを振り切って、隣棟の出入口の前に行った。  ちょうどその家の主人が、段ボール箱を抱えて出て来た。 「あら、ご主人、せっかくお知り合いになれたばかりなのに、もうお引っ越しですか」  奈美江はさりげなく問いかけた。つき合いはなかったが、敷地内で顔を合わせると、会釈ぐらいは交わしている。 「ああ、奥さん。お世話になりましたね。この住居そのものは気に入っているのですが、なにせ不便さにまいってしまったのですよ。テレビは見えない。新聞は来ない。買物や郵便一つ出すにしても、町まで行かなければならないし、ここでは下手に風邪もひけませんのでね。おもいきって出て行くことにしました。住居というものは自然が豊かで、広ければいいというものではないことをおもい知らされましたよ」  主人は自嘲《じちよう》するように笑った。  隣棟の住人の移転は、鶴川一家に深刻な衝撃をあたえた。  こここそ終《つひ》の栖《すみか》として定めたつもりの理想郷が、みるみる崩れ落ちていく。だが、全財産を注ぎ込み、長期のローンを組んで入居して来た新天地を、簡単に捨てることはできない。  鶴川一家はこの住居を得るために、半生の蓄積のすべてを使い切り、重い負債を抱え込んでしまったのだ。  たしかに入居して来た当初は、釣り堀から海に放されたような気がした。たっぷりした居住空間に太陽が一日中|燦々《さんさん》と輝き、視野は緑に埋もれ、空気は美味《おい》しい。  だが、便利さの究極を追求する物質文明に馴《な》らされたというよりは毒された身には、そこがどんなに優れた居住環境であっても、便利さの鎖から切り離されては生きてはいけない。  現代の人間は各種公害や、核戦争の可能性や、地球そのものまでも損傷できる破壊力を手に入れた文明の危険性を熟知していながらも、もはや車や電気やガス・水道や、電話や飛行機のない生活へ決して逆戻りすることはできない。  鶴川一家は陸の孤島とも言うべき新しい住居に入居して、自分たちが便利さの奴隷になっていることを実感した。  ここは現代の文明の奴隷のための流刑地であった。  入居者がまったくないわけではなかった。時折トラックが横づけになって、家具を搬入している。  だが、不思議なことに、夜になっても窓の灯は一向に増えない。 「新たに入居して来るのはお年寄りばかりよ。この調子でいくと、この団地は姥捨山になっちゃうわよ」  奈美江が不安げに言った。 「そう言われてみると、最近、敷地内を散歩する老人の姿が増えたようだな」 「心配だわ。入居して来るほとんどのお年寄りが独りなのよ。診療所一つあるわけではなし、病気になったらどうするつもりかしら」 「きみが心配しなくとも、家族がちゃんと気をつけているよ。電話もある。なにか事あれば、家族が飛んで来るさ」 「私ね、こんな辺鄙な土地に、お年寄り独りを住まわせる家族は信用できないのよ。お年寄りの入居者は増えているけれど、お年寄りを訪ねて来る人をほとんど見かけたことがないわ。電話もしているかどうか、わかったもんじゃないわよ。もしかすると、電話を引いてないお年寄りもいるかもしれないわ。きっと冷たい家族たちが、この団地を姥捨山にし始めたのよ。そのうちに入居したお年寄りの孤独死なんていうことが起きなければよいけれど」 「きみ、なにを言っているんだ」 「そうよ。そうにちがいないわ。そうでなければ、こんなにお年寄りの入居者ばかりが増えるはずないもの」 「たまたま年寄りの姿が目立ったというだけだよ。年寄りは閑《ひま》だからね。その辺を散歩するか、公園で日向ぼっこをすることぐらいしか仕事がない。だから、目につきやすいんだよ」  と鶴川は妻の不安をなだめたものの、内心、充分あり得るかもしれないとおもった。  独居老人たちがどんな暮らしをしているか、うかがい知れない。隣り近所と交際もなく、訪問者もない。身内がいなければ、いたとしても連絡を取り合っていなければ、身動きできなくなってもわからない。  寝たきりになって食物も摂《と》れず、病死する前に餓死してしまうかもしれない。  鶴川は夜間、窓辺に立って暗い窓を眺めていると、その奥の闇でひっそりと死に、白骨化していく死骸《しがい》を想像して、背筋に冷たいものが走った。  妻の不安は決して杞憂《きゆう》ではない。充分起こり得る可能性である。だが、鶴川にはどうすることもできない。     4  入居して初めての冬、鶴川夫妻の危惧《きぐ》していたことが発生した。  一月下旬のある日、太平洋岸を通過した低気圧が、湿った雪を関東地方南部に大量に落として行った。鶴川の住む団地も深い雪に埋もれた。  雪は一日で止んだが、団地にさまざまな後遺症を残した。  雪の重みで送電線が切れたらしく、停電となった。この団地では、屋上のタンクに電力で水を汲《く》み上げてから各室に給水する方式なので、停電後間もなく、断水となった。  電気と水を相前後して断たれ、暖房機も使えなくなり、住人たちは闇と寒さの中に閉じ込められた。  住人が少ないために、修理が後まわしにされているらしく、送電と給水はなかなか再開しなかった。  雪は夜の間に凍って、表面がクラスト状態になった。転倒して怪我をする入居者が続出した。  一一〇八号室の豊島勝治は雪が降った二日後、散歩中、坂道で転倒して、足首を捻挫《ねんざ》した。救急車で病院に運ばれ、手当てをされて帰って来たが、それ以後、寝たきりになってしまった。警察からも、一応事情を聴きに来た。  豊島は犬と猫《ねこ》を飼っていたが、飼い主の病気と共に、犬は保健所が引き取り、猫は野良猫の仲間入りをした。白い毛に菱《ひし》型の黒い模様の混じった猫である。  首輪を付けた猫が野良猫と共に餌を漁《あさ》っている姿は、ひとしお憐《あわ》れを誘った。  だが、身内の者は現われない。やむを得ず同じ棟の奈美江や、一四〇三号室の矢沢恵子が豊島の部屋に食物を運んだり、身の回りの世話をしてやったりした。  全身に成熟した色気をまぶしたような矢沢恵子は、見かけによらず親切で、豊島に小まめに食物を運んだり、身の回りの世話を焼いているようであった。 「矢沢さんって、意外にいい人ね。男を手玉に取るのが能だけのあばずれだとおもっていたけれど、人を見かけで判断してはいけないわ」  奈美江は言った。 「色っぽい女は、同性にはどうやらあばずれの悪女に見えるようだね」  鶴川が矢沢のよく熟れた姿態をおもい浮かべた。 「悪女だなんて言っていないわよ。あなたに注意するように言ったのよ。ああいう女は男を誘惑するのが上手だから」 「まさか。同じ団地に住んでいるんだよ」 「あら、同じ団地でなければいいの」  奈美江に顔を覗《のぞ》き込まれて、 「そんな意味じゃないよ。彼女、案外家庭的な女性かもしれないな」  鶴川は少し慌てて論点をずらした。 「矢沢恵子の家にはいろいろな男が出入りしているらしいよ」  正彦が言葉を挟んだ。 「どうして知っているの」 「駐車場にね、見慣れない車がよく停まっているんだよ。カムフラージュに隣棟の駐車場に停めたりしているけど、彼女の階段から下りて来る男を見かけたことがあるよ。そのつど顔ぶれが変わっていた」  正彦の面には露骨な好奇の色が塗られている。 「そう言われてみると、私もそれらしい見慣れない男の人を見かけたことがあるわ」 「まあ、あれだけ色っぽい女だから、男の二人や三人はいても不思議はないがね」  鶴川が弁護するように言った。 「私、前から睨《にら》んでいたのよ。あの人、きっとなにか秘密を抱えているにちがいないと」 「秘密だって?」  鶴川は妻の顔を覗いた。 「秘密を抱えた女が隠れ忍ぶには、この団地は絶好じゃない。人目が少ない上に町からは離れているし、交番もないし」 「きみ、なに言っているんだ。人をそんな目で見てはいけないよ」  鶴川は真剣な表情になって、妻をたしなめた。 「一三〇二号室の日野さんだって、怪しいもんだわよ。昼間はずっと寝ていて、夜になると出かけて行くらしいわ。なにをやっているかわかったもんじゃないわ。類は友を呼ぶと言うから、脛《すね》に傷持つ人間がこの団地に集まって来たんじゃないかしら」 「妙な勘繰りはやめなさい。そんなことが入居者の耳に入ったら、大変だよ」 「私、だんだんこの団地が怖くなってきたわ。いまに姥捨山《うばすてやま》か悪人の巣窟《そうくつ》になりそうな気がして」 「変な想像するのはやめろ。自然が豊かで、設備がよくて、一生の間にこんな素晴らしい家に住めるなんておもわなかったと言ったのは、だれなんだ」 「人間の住む場所は、豊かな自然に取り囲まれていて、お部屋がたくさんあればいいというだけではないことが、ここへ来てよくわかったのよ」 「ここはぼくたちにとって、生涯の夢を実現した終《つひ》の栖《すみか》なんだよ。ただ、ちょっと入居者が集まらないので、当初の計画が停滞しているだけだ。いまにこの場所のよさが知れ渡れば、入居者が殺到して来る。そうなれば、理想的な団地になるよ」  鶴川は妻に対してというよりは、自分自身を励ますように言った。  彼にとってこの家は生涯をかけた結晶であり、生きた証であり、彼の人生の作品であった。それが陸の孤島の流刑地とあっては、救いがない。  実際、ここへ入居した当座は、世界が変わったように見えた。入居と同時に、新たな人生のスタートラインに立ったような、そんなフレッシュな気分であった。  それがいつの間にか社会からも切り捨てられて、竣工《しゆんこう》したばかりのぴかぴかの団地が、速やかに荒廃していくようである。  入居している家はとにかく、無住の区分は、ベランダのフェンスが早くも錆《さ》びかけ、いつの間にかドバトが住み着いている。  壁面には雨水が黒い縞《しま》を描き、早くもひび割れが見られる。  たしかに奈美江が危惧するように、団地の住人には老人を主体に、得体の知れない人間が目立った。彼らはこの文化果つる地の流刑囚のようであった。 「私たちは流刑囚ではない」  と鶴川一家はおもうのだが、この団地に入居するために蓄財をすべて使い果たしてしまった彼らには、新たな住居を求めて出て行くことができない。  この団地に縛りつけられているという点においては、流刑囚となんら変わりない。  その間に、彼らも団地の錆びたベランダや、ひび割れた壁のように、高速回転の文明から置き去りにされて、本物の流刑囚になっていくような気がした。 [#改ページ]  囚人のいない檻《おり》     1  全棟の住人の肝を冷やすような大事件が発生した。  三月末日の深夜、鶴川は瞼《まぶた》に異様な明るさを感じて目を覚ました。常ならば、深い闇に閉ざされているはずの視野が、異様に明るい。明るさは窓の外から来ている。  なにごとかと訝《いぶか》しんで、窓辺に立った鶴川は、仰天した。隣棟の窓の一つから盛大な炎が噴き出している。  炎の先から夥《おびただ》しい火の粉が空に舞い上がって、こちらの棟へ飛んできている。 「火事だ」  という声が聞こえた。 「奈美江、正彦、正明、大変だ。起きろ」  愕然《がくぜん》として、鶴川は家族を叩《たた》き起こした。  ようやく住人たちが起き出してくる気配がした。 「早く一一九番に連絡しろ」 「もうとうにだれかがしているわよ」 「重なってもかまわないから、通報しろ」  鶴川に促されて、奈美江が一一九番すると、彼女の連絡が第一報であった。  消防車が到着するまでに、火の手が燃え広がった。炎の先は鶴川家の棟にまで及びそうな雲行きになった。  消防車が到着しても、消火栓が不備なため、遠方から水を取り、ホースを蜿々《えんえん》と伸ばしたために、水圧が上がらず消火に手間取った。  ようやく鎮火したが、火は二区画を全焼、三区画目を半焼していた。火は一階の無住の区画から発していた。  鎮火後の消防署の検査によって、ベランダ側のサッシ窓のガラスを破って侵入したホームレスの焚《た》き火が、火事の原因と判明した。  火の手が拡大したのは、まず通報の遅れ。次に火災現場が辺鄙《へんぴ》なため、消防車の到着が遅れたこと。さらに消火栓が不備で、消火作業に手間取ったことが挙げられた。  自然に恵まれた理想的な居住環境が、一件の火災によって、災害時に弱いことを露呈してしまった。 「冗談じゃないわよ。ホームレスが空いている部屋に潜り込むなんて。これからもあるかもしれないわ。夜もおちおち眠れないじゃないの」  奈美江はかこった。 「団地の管理会社も、今後、怪しい者が入り込まないように、戸締りを改めてチェックすると言っていたから、もうホームレスが潜り込むようなことはないだろう」  鶴川は気休めを言った。 「どうしてそう言い切れるの。この団地に空室が多いことが世間に知れ渡ってしまったわ。ホームレスだけではなく、悪い人間が隠れ家にするかもしれないわよ」 「考えすぎだよ」  そうは言ったものの、鶴川は夜間、暗い窓を並べている団地の建物が、あやかしの巣窟のようにおもえてきた。  この火事騒動以後、一四〇六号室の深井と、一二〇四号室の村岡の姿を見かけなくなった。最初に気がついたのは奈美江である。 「あなた、このごろ深井さんと村岡さんの姿が見えないわね」 「そうだったかな」  鶴川はあまり関心がないようである。 「以前はよく散歩をしたり、野良猫に餌をやっている姿を見かけたわ。最近、全然姿を見ないけれど、どうかしたのかしら」 「孫の顔を見に行っているんじゃないのか」 「だったらいいけれど、二人ともお歳だから、豊島さんのように寝込んでいるのではないかしらね」 「つき合いもないのに、様子を見に行くわけにもいくまい。それこそ、よけいなお節介というものだよ」 「もし病気になって、寝たきりになっていたら……この団地で、老人が孤独死なんかしたら、入居者は冷たい人間だとおもわれるわよ」 「仕方がないだろう。ぼくたちは老人ホームのボランティアをしているわけじゃない。冷たいとそしられるのは、そんな年寄りを一人でこんな山の中の団地に入居させた身内だよ」 「このごろ注意して見ているけれど、深井さんも村岡さんの家の窓もしめっきりよ」 「だから、留守なんだろう」 「まさか、家の中で死んでいないかしら」 「そんなに心配なら、矢沢恵子さんに頼んでみてはどうかね。彼女は親切なんだろう」 「もちろん話したわよ。でも、矢沢さんは豊島さん以外には関心がないみたい」 「ほう、それはまたどうしてかね」  鶴川は不審げな顔をした。 「あなたがいま言ったじゃないの。矢沢さんも老人ホームのボランティアじゃないのよ。一人で三人の面倒はみられないわ」 「しかし、豊島さんも深井さんも村岡さんも、同じ境遇だよ。どうして豊島さんだけ世話をするのかね」 「きっと、豊島さんと波長が合うんでしょ。人間ですもの、好き嫌いはあるわ」 「まあ、あまり他人のことは詮索《せんさく》しない方がいい。そのうちにまた散歩をしたり、猫に餌をやるようになるさ」  そのときはそれで終わった。  数日後の夜、夕食の後、奈美江はベランダに面するリビングの窓辺に立って空を見ていた。綺麗《きれい》な星空も、毎晩見慣れていると当たり前になってしまう。  正彦と正明はそれぞれの部屋に引きこもってしまった。  テレビをあきらめた二人は、正彦は自室にビデオデッキを買い込んで、なにやら怪しげなビデオカセットを再生し、正明はテレビゲームに凝っているようである。  家族のプライバシーを尊重した間取りは、食事が終わると各自さっさと自室に閉じこもって、家族の紐帯《ちゆうたい》をばらばらにしてしまったようである。  その食事すら、四人が顔を合わせる機会は少なくなった。  窓辺に立った奈美江が、突然、しゃくり上げた。かたわらにいた鶴川が驚いて、 「どうしたんだい」  と問うと、 「私、以前の住居の方がよかったわ」  と泣き声で訴えた。 「突然、なにを言い出すんだ」 「この団地はたしかに自然がいっぱいだし、間取りもゆったりしているし、一日中陽が当たって、夜は星がよく見えるわ。でも、肝心の人間がいないのよ。人間のいない団地なんて、廃墟《はいきよ》と同じだわ」 「ぼくたちや、矢沢さんや日野さんや、その他の入居者が少ないながらいるじゃないか」 「あの人たち、入居者じゃないわ」 「入居者でなければ、なんだい」 「置き去りにされたのよ。あるいはなにか理由《わけ》があって、人目を憚《はばか》っているのよ。この団地にいる人たちは、みんな普通の人間じゃないのよ。私、狭くてもいい。騒がしくてもいい。陽が当たらなくてもいい。星が見えなくてもいいわ。普通の人間がたくさんいて、近所にスーパーやお菓子屋や本屋や、化粧品店や薬屋や、気の利いた喫茶店があって、街の気配が家の中に直接入り込んでくるような前のアパートの方が好き。  あなたが会社に行って、正彦と正明が学校へ行っている間、私がなにをしているとおもう? この広い家をお掃除して、洗濯して、片づけものをして、一日中だれとも口をきかないのよ。猫や鳥とは人間の言葉で会話はできないわ。  ようやくあなたたちが帰って来ても、お食事がすむと自分の部屋に入ってしまう。以前のアパートだったら、家族がいやでも一緒にいたわ。でも、家族ってそういうものじゃないかしら。私、この団地に入居して来て、お友達や家族まで失ってしまったような気がするの。  あなた、見て。灯のともっている窓がいくつ見える。まだ宵の口なのに、真っ暗な窓が並んでいるのを見ると、廃墟に住んでいるような気がしてくるの。ここは監獄ですらないわ。監獄なら、窓の中に囚人がいるもの。私、前の家に帰りたい」  話している間に、奈美江は感情が激してきたらしい。  鶴川は妻を慰める言葉もなかった。奈美江が言ったことは、最近、彼も感じ始めていたことである。  鶴川家は釣り堀から海に出て、家族の密着とスキンシップを失ってしまった。  たしかにここへは、これまでの半生の過去は追いかけて来ない。だが、同時に、前の生活とのつながりをすべて断ち切ってしまったのである。  奈美江はいみじくも廃墟と言った。彼らは新たな住居を探すにあたって、環境や設備だけに目を向けていて、人間を忘れていた。人間のいない住環境は、住居ではない。  妻に泣きつかれても、鶴川にはどうすることもできなかった。  彼らもこの陸の孤島に置き去りにされたロビンソン・クルーソーになったのである。     2  火事の二日後、またまた大事件が発生した。  この日午前十時ごろ、深井ミノの妹、キヨが団地の第一号棟一四〇六号室を訪ねて来た。最近、姉のミノから連絡が途絶え、電話をかけても応答がないのを不審におもって、様子を見に来たのである。  一四〇六号室の前に立って、いくらチャイムを押しても、室内に気配が生じない。  ドアをさらにノックして、姉さんと声をかけても、依然として室内は静まり返ったままである。  姉は今年八十二歳である。キヨになにも言わずに、何日も旅行に出かけたとはおもえない。彼女の胸の内に不吉な予感が盛り上がっている。  姉さんともう一度呼びかけて、ドアを引いてみた。なんとドアには錠がかかっていなかった。  在否いずれにしても、不用心なことだとおもいながら、 「姉さん、いるの。入るわよ」  キヨは念のためにもう一度声をかけて、中に入った。  彼女の老いた嗅覚《きゆうかく》も、ドアを開けたときから室内に妙なにおいがこもっているのに気づいた。  ドアを開くと、三和土《たたき》から玄関の式台へつづき、真正面に六畳の和室、左手にダイニングキチン、その奥にリビングと洋室と和室が並んでいる。  キヨは姉が玄関から最も奥まった、ベランダに面した六畳の和室を寝室に使っていることを知っている。  室内は小綺麗《こぎれい》に整頓《せいとん》されているが、生活をつづけていた痕跡《こんせき》が認められる。  室内灯はすべて消えていたが、電気ポットは通電されていて、保温になっている。容量もほぼ満タンである。  ダイニングキチン、リビング、洋室にも姉の姿がないのを認めたキヨは、リビングと寝室の間を仕切っている襖《ふすま》を引いた。  寝室には蒲団《ふとん》が敷かれていて、そこにミノが寝ていた。異臭はますます濃くなっている。  キヨはぎょっとして枕許《まくらもと》に立ちすくんだ。 「姉さん」  おもわず声を発したが、なんの反応もない。ミノは蒲団の中で死んでいた。  キヨは悲鳴をあげて救いを求め、入居者が一一九番をして、救急車が駆けつけて来たが、部屋の主が死んでいるのを確かめた救急隊員は、警察に通報した。  検視によって、死因は餓死と鑑定された。老衰して寝たきりになり、介護する者もないまま、餓死した模様である。遺書のようなものは残されていなかった。  部屋の主は隣り近所との交際はなく、もともと入居者の少ない団地で、孤立した生活をしていた。 「あなた、大変よ。深井さんが餓死したんですって。恐れていたことがとうとう起きたわ」  奈美江はその日、帰宅して来た鶴川に伝えた。 「餓死だって。まさか」  鶴川もにわかには信じられないようである。 「だから、私が言ったでしょう。ここのところ姿を見かけないので、部屋の中で死んでいるんじゃないかと」 「まさかそんなことになっているとはおもわないよ」 「こうなると、村岡さんが心配だわ」  村岡秀紀の姿も深井ミノとほぼ相前後して見かけなくなっている。 「まさか、二人同時に孤独死するということもないだろう」 「そのまさかが起きたんじゃないの。ここは姥捨山《うばすてやま》なのよ。お年寄りが立てつづけに死んだって、ちっとも不思議はないわ」 「だからといって、どうなる。ぼくたちには関係ない」 「お年寄りが同じ屋根の下で死にかけているかもしれないのに、放っておくの」 「死にかけているかどうかわからないじゃないか。関わり合いにならない方がいい」 「匿名で通報すればいいでしょう」 「縁もゆかりもない人だよ。そんなに気になるのかい」 「縁もゆかりもないわけじゃないわ。同じ屋根の下に住んでいる人よ。袖《そで》振り合うも多生の縁と言うじゃないの。同じ棟に住んでいて、孤独死が二人も出たら、寝覚めが悪いわ」 「そんなに言うなら、通報したらいい。ただし、公衆電話からにしなさい」 「どうして?」 「一一〇番や一一九番はどこからかけてきたかわかるそうだよ」  奈美江は公衆電話から、「一号棟の一二〇四号室の村岡さんの姿を最近見かけないので、部屋を調べてもらいたい」と一一九番通報した。  相手が、あなたはどなたですかと問いかけたのに答えず、奈美江は電話を切った。  消防署では、同じ棟ですでに一人の老人が孤独死していたので、その通報を重視した。  救急隊員が一二〇四号室を訪問して、チャイムを押したが応答がない。室内は無住の気配である。郵便受けにはダイレクトメールが数通配達されたままで、取り込まれていない。  部屋の主が不在であれば、留守中、みだりに入るわけにはいかない。  そのとき、ドアに耳を近づけ、屋内の気配に耳を澄ましていた隊員が、テレビの音が聴こえるような気がする、と言い出した。  もう一人の隊員が、ドアに耳をつけた。低い音量であるが、たしかにテレビのような音声が聴こえる。  二人は顔を見合わせた。テレビをつけたまま外出する者は少ない。念のためにドアを引いてみると、なんの抵抗もなく開いた。  救急隊員はぎょっとして、ふたたび顔を見合わせた。一四〇六号室の孤独死老女と同じ状況である。  ドアを開くと、屋内から一層|明瞭《めいりよう》に、テレビから発するらしい音声が流れてきた。音声と同時に、救急隊員は異臭を嗅《か》いだ。  彼らは部屋の主の名前を呼びかけながら、屋内に入った。部屋の主はベランダに面する六畳の寝室にのべられた蒲団の中で死んでいた。  枕許にラジオが置かれて、物体に還元した聴取者の耳許で、無意味な音声を発していた。  救急隊員から警察に連絡が行き、所轄署員が臨場して来た。  検視の結果、死因は餓死と鑑定された。死後経過十日前後、一四〇六号室の主とほぼ同じである。  屋内は小綺麗に整頓されており、遺書は発見されなかった。これも一四〇六号室と同じ状況であった。  ほぼ同時期に、同じ団地で老人の孤独死が相次いだので、警察も事態を重視して捜査したが、結局、事件性はないものと判断した。  深井と村岡の連続(ほぼ同時)孤独死は、マスコミに派手に報道された。  ある新聞は、「現代の姥捨山」という見出しを掲げた。奈美江が密《ひそ》かに呼んでいた名称をマスコミがレッテルとして張りつけたのである。 「私たち、とうとう姥捨山の住人にされちゃったわね」  奈美江が泣き笑いの表情をした。  深井ミノは八十二歳、村岡秀紀は八十一歳。深井には三人の子供、村岡には四人の子供がいるが、それぞれ別居していて、ほとんど没交渉だったそうである。  深井は団地に入居する前は、子供の家をたらいまわしされていたが、団地の竣工《しゆんこう》と同時に入居して来た。  その後、子供たちとは没交渉になり、ただ一人の妹キヨと時どき連絡を取り合っていた。  一方、村岡は団地に入居前から子供たちと別居して、アパートで独り暮らしをしており、その後団地に入居して来たということである。  入居前から子供たちとは他人同然になっていたらしい。  警察から二人の死を連絡されて、子供たちが集まって来たが、死体の枕許で団地の権利の分配と、葬儀費用の分担の相談を始めたという。  団地の集会所で開かれた二人の合同葬儀には、まばらな会葬者に老人の姿が目立った。彼らはいずれも団地の入居者で、同じ境遇の二人の孤独死を他人事《ひとごと》とはおもえなかったようである。  会葬者の中に二十代後半、化粧の濃い派手な面立ちの若い女が一人いた。老人の多い弔問客の中で、一際《ひときわ》目立った。他の弔問客が特に視線を集めていないところを見ると、入居者かもしれない。  彼女は焼香をすますと、足早に集会所から出て行った。  弔問客の中に所轄署の増成《ますなり》という刑事がいた。彼はべつに事件性を嗅ぎつけて来たわけではない。  それぞれ何人かの子供があり、孫がありながら、山中の団地に置き去りにされて、孤独な死を迎えた二人の老人を哀れにおもって焼香に来たのである。  六十五歳以上の人口が全体の七パーセントを超えたとき、高齢化社会と呼ぶ。一九九五年、日本の人口は約一億二千五百万、六十五歳から七十四歳まで千百十万、七十五歳以上は七百十八万、六十五歳以上の割合は一四・六パーセント。完全な高齢社会である。  これが二〇〇七年には二〇パーセントを超え、二〇一五年には二五・二パーセント、四人に一人は高齢者の割合となると推定されている。  高齢者以外の三人のうち一人は子供あるいは学生なので、二人の壮年が一人の高齢者を負担するという割合になる。  いま二十代のカッコいい若者たちが壮年になるころは、二人が一人の老人を支えるという時代に入っているのである。  二〇二五年になると男の平均寿命は七十八・八〇歳、女は八十五・八三歳と推計されている。六十年で定年しても、なお二十年以上生きなければならない。  高齢化先進諸国ではリタイア年齢は六十五歳に引き上げられているが、それでもリタイア後、十五年以上は生きる勘定になる。この間、なにをして生きればよいのか。  供花一つなく、寂しい葬儀であった。二人とも平均寿命を超え、年齢に不足はないが、子供や身寄りから捨てられて、現代の姥捨山で迎えた孤独死に、高齢社会の悲劇が象徴されているように見えた。  二人にも生命の充実した青春時代や、脂の乗り切った壮年期があったであろう。探せば、彼らが地に刻みつけた生きた証が見つかるかもしれない。  だが、彼らの人生の終着が姥捨山の孤独死とは、その最盛期には予想もしなかったはずである。  死ぬときはたとえ一人であっても、そんな死に方はしたくない。増成は一人の人間の生きた証が、姥捨山での終止符によってすべて抹消されてしまったような気がした。  形ばかりの祭壇に向かって焼香した会葬者は、そそくさと帰って行く。増成も焼香を終えると、もはやそこに残るべき口実はない。  集会所を出ると、すぐ前を二人の七十代後半とおぼしき老人が歩いていた。彼らも会葬の帰途である。 「あの二人、申し合わせて連れ立って行ったんじゃないのかな」 「羨《うらや》ましいね。おれにもそんな連れがあればいいな」  二人の老人の会話が、増成の耳に届いた。 「子供たちには見捨てられ、生きていても面白いことはなにもない。これから先、姥捨山で寿命まで生きた死骸《しがい》のように暮らすよりは、同行二人、申し合わせてあの世へ旅立ったということじゃないかね」 「長生きも辛《つら》いな」 「人生とは生きるということだとおもっていたが、歳を取ると、ただそこにいるというだけになるな」 「いるだけなら、まだましだよ。石や物のように置かれているだけだ。そのうちに身動きできなくなったら、身体中にチューブを突っ込まれて、無理やり生かされるようになる」  二人の老人は乾いた声をたてて笑った。  聞くともなく老人の会話を聞いていた増成は、はっとした。  増成は背後から二人に声をかけて呼び止めた。 「お亡くなりになった深井さんと村岡さんには、おつき合いがあったのですか」  増成は二人に問うた。 「棟がちがうので詳しいことは知りませんが、あの二人は同じ棟の住人で、男と女だからね」  老人の一人が答えた。 「男と女」 「いくら歳を取っても、男と女であることに変わりはないよ」 「亡くなったお二人が、日ごろ仲がよかったような場面を見かけたことはありませんか。たとえば一緒に散歩をしていたとか、買物に行ったとか、旅行に出かけたとか……」 「そうだな、そう言われてみれば、公園のベンチで話し込んでいる姿を見たことがあるね」 「それは何度くらいですか」 「いや、二度か三度くらいだったかな。注意して見ていたわけじゃないから、よくおぼえていないな」  老人の言葉は、増成がふとおもい当たったことを裏書きしていた。  老人が、いくつになっても男と女だと言ったように、村岡と深井は男と女の関係に入っていたのではなかろうか。  身寄りから置き去りにされた姥捨山で、ふと寄り添った二人が、似た者同士老いらくの恋へと発展したことは充分に考えられる。  若ければ手に手を取って駆け落ちをするところを、彼らはあの世へと駆け落ちをした。  もはや、この世で花を咲かせるには生きすぎた。二人は申し合わせて食を断ち、死出の旅路についた。  二人の死は老人の孤独死ではなく、心中だったのではあるまいか。  孤独死にしても心中にしても、彼らが自らの意志でこの世に訣別《けつべつ》したことには変わりない。増成は複雑なおもいにとらわれた。  せっかく死出の旅路のパートナーを見つけたのであれば、なぜ二人手を取り合って一緒に生きてみようという気にならなかったのか。  一人ではお先真っ暗な先行きも、二人三脚で行けば、あるいは新たな地平が開けたかもしれない。  若い二人が実らぬ恋を悲しんで心中するケースは多い。だが、二人の老人には生きた歳月だけ人生の知恵があったはずである。  その知恵を集めて、もっと生きてみようという気にならなかったのか。     3 「深井さんと村岡さん、もしかしたら心中じゃなかったのかしら」  二人の葬儀の後、奈美江が言い出した。 「なんだって?」  鶴川が驚いた顔をした。 「だって、二人相前後して餓死だなんて、おかしいんじゃないの」 「べつにおかしくはないだろう。身動きできなくなって、食べ物を買いに行けなくなり、寝たまま餓死しても不思議はない年齢だよ」 「少し前まで元気に散歩していた二人が、急に身動きできなくなるかしら」 「いくらでもあるだろう。階段で転んで足を挫《くじ》いても、風邪をひいても、腹痛を起こしても、年寄りだからね、簡単に身動きできなくなる。なにしろ診療所一つない陸の孤島だからね」 「二人とも電話を引いていたわ。救急車を呼んでもいいし、それぞれ子供が何人もいるんだから、身動きできなくなったから、食物を買って来てくれと電話で頼めば、いくら薄情な子供でも駆けつけて来るわよ」 「それにしても、心中だなんて、考えすぎだよ。もうそんな歳でもないだろう」 「どんなに歳を取っても、男と女であることに変わりはないわ。老いらくの恋と言うじゃないの」 「そんな気配は見えなかったがね」 「あなたはほとんど家にいらっしゃらないからわからないのよ。そう言えば、あの二人、公園のベンチに腰かけて、仲良く話し込んでいる姿を何度か見かけたことがあったわ」 「年寄り同士がベンチで話し込んでいるのは珍しくないよ」 「話し込んでいても、同時期に死んだ人はほかにはいないわ」 「仮に心中だったとしても、事情は変わらないだろう」 「大いに変わるとおもうわ。普通だったら身寄りから捨てられた寂しい二人が、慰め合い励まし合って、一緒に生きていこうという気になるものよ」 「だから、心中じゃないんだろう」 「この団地のせいよ。団地の環境が二人をそうさせたんだわ」 「団地のせいだって?」 「この団地は人間の心を落ち込ませるのよ。この団地そのものが世の中から切り捨てられ、置き去りにされているの。だから、バスも来ないし、スーパーもお店も、交番も郵便局も医院《クリニツク》もないのよ。消防車も駆けつけるのが遅れるし、最近はタクシーもいやがるわ。ここに住んでいると、生きていこうという気を失わせるのね。  深井さんも村岡さんも、べつの場所で知り合っていたら、あるいは手を取り合って生きていこうという気になったかもしれないわ。知り合った場所が悪いのよ」 「なんでもかんでも団地のせいにするんだね」 「あなたにはわからないのよ。しょせん寝に帰るだけの場所ですもの」 「そんなことはないさ。休みの日にはずっといる」 「死んだ二人は休みの日だけではないわ。朝から晩まで、いつもずっとここに縛りつけられていたのよ。そして、私もね」 「おい、変なことを言うなよ。なんだかきみまでが心中しそうな言い方じゃないか」 「わからなくてよ。私にも深井さんや村岡さんのようなパートナーがいたら、心中したくなっちゃうような雰囲気だわ」 「馬鹿なことを言うもんじゃないよ。仮にあの人たちが心中したとしても、それは団地のせいじゃない。話し合っている間に、たがいに同情し合って先行きに絶望して、一緒に死のうという気になったかもしれないじゃないか」 「これから先、同じような死人が出るかもしれないわ。とりあえず次に死にそうなのは豊島さんね」 「めったなことを言ってはいけない。そんなことが当人の耳に入ったら、ますます落ち込んでしまうぞ」 「もう充分落ち込んでいるわよ。この団地は人を絶望させるのよ。絶望団地ね」 「怒るぞ。ぼくたちにとっては、ここが半生かけて築き上げた城なんだ」 「城は城でも、荒れた城ね。窓から月も星もよく見えるわよ。ここから見る月が荒城の月ね」 「いいかげんにしろ」  鶴川はおもわず大きな声を発した。だが、妻に言われて、ここに入居してから、夫婦の間が刺々《とげとげ》しくなってきたのを認めざるを得ない。  夫婦の間だけではなく、家族がばらばらになってしまった。この団地には人間を絶望させ、家族の関係を荒廃させる毒素があるのかもしれない。  その毒素が二人の老人の命を奪ったのではないのか。  鶴川がそうおもうようになったこと自体が、すでに団地の毒素に冒されているのかもしれない。  鶴川の心に、次に死ぬのは豊島かもしれないと言った奈美江の言葉が、重くのしかかってきた。 [#改ページ]  暴走した団地     1  増成は地域の団地で発生した二人の老人の孤独死に関心を持った。もし心中であれば、孤独死ではない。事件性はないが、二人を心中に駆り立てた動機はなんであったか。  二人の生前の身辺について、余暇を利用して聞き込みをつづけている間に、彼らが入居していた団地全体を覆う暗鬱《あんうつ》な雰囲気に増成は気がついた。  ある新聞が、姥捨山《うばすてやま》と名づけていたが、たしかに入居者に老人が多い。  金持ち老人が余生を託すライフケア・マンションに見られるような、余生をエンジョイしようとして集まって来た人々の陽気さと、悠々自適の余裕は一かけらもなく、捨てられた老人たちの寂寥《せきりよう》感と無気力がスモッグのように吹き溜《だ》まっている。  一見、豊かな自然の懐に抱かれ、一戸五LDKの南向きのマンションは、理想的な終《つひ》の栖《すみか》である。  だが、文明社会からほとんど切り離された陸の孤島とも言うべき団地は、文明から栄養を吸収しなければ生きていけない現代の人間の根を枯らしてしまうようであった。  陸の孤島と言っても、駅からせいぜいタクシーで二千円前後の距離である。もちろんガスも水道も電気も通っている。郵便物も配達される。テレビも映像は悪いながらも映る。  だが、団地と町との間には、越えるに越えられない透明な幕が張りめぐらされているようであった。その幕が団地を文明社会から隔絶された孤島にしている。  増成はこの薄い幕が、二人の老人の生命の根を枯らし、死に導いたのではないかとおもった。  団地の管理会社に問い合わせてみると、当初の計画に反して、入居者が予定通り集まらないために、四棟以下の建設計画は中断され、バスの乗り入れ、スーパー、商店、診療所、郵便局、学校、幼稚園等の新設のめどは立っていないということであった。  甘いことずくめの管理会社の言葉を信じて早々と入居して来た人たちは、二階へ上げられて、梯子《はしご》を外されたようなものである。 「文明の中の孤島か。現代の恐怖だな」  増成はつぶやいた。一見、理想的な住居環境であるだけに、恐怖の根は深い。  そのとき、増成のかたわらを一台のタクシーが砂塵《さじん》を巻いて走り抜けて行った。  増成は、おやと首をかしげて、車の走り去った方角を見送った。客席にいた若い女の横顔に記憶があった。 「そうだ、集会所で会った女だ」  増成はおもいだした。  団地の集会所に焼香に行ったとき、会葬者の中にいまの女がいたような気がする。老人の弔問客が多い中で、異色の存在であった。  団地の敷地内で二度も出会ったということは、やはり入居者なのであろう。団地の入居者としては、まさに紅一点であろう。  それにしても若い水商売風の女性が、ことさら辺鄙《へんぴ》な団地に入居しているのは、なにか人目を憚《はばか》る事情があるからであろうか。  増成は少し前に、同じ団地からホームレスの焚《た》き火が原因で、火を発した事件をおもいだした。  空室の多い辺鄙な団地は、ホームレスが潜り込むのに恰好《かつこう》であろう。同時に、犯罪者に絶好の隠れ家を提供するかもしれないことに、増成は気づいた。 「姥捨山と梁山泊《りようざんぱく》(『悪の巣窟《そうくつ》』)の同居か」  増成はつぶやいた。 「いけない、いけない。これも刑事の発想だ」  増成は慌てて首を振った。     2 「ねえ、一三〇二号室の日野さん夫婦は絶対怪しいわよ」  奈美江が言った。 「また、なにかあったのかい」 「夜中、午前三時ごろだったとおもうけれど、お手洗いに立って、なにげなく窓の外を見たら、日野さんご夫婦の車が帰って来たの。ずいぶん遅いご帰館だなとおもって見ていると、あの二人、車の中からなにやら包みをごそごそ積み下ろして、家の中に運び入れていたわ。ねえ、あの夫婦、もしかしたら泥棒じゃないかしら」 「自分の当て推量だけで、めったなことを言うもんじゃないよ」  鶴川はたしなめた。 「単なる当て推量ではないわ。午前三時に変な荷物を車にたくさん積んで帰って来る人間はそうそういないわよ。あれはきっと盗品なのよ。昼間は眠り、夜になると泥棒してまわっているのよ」 「車から積み下ろした荷物の中身を確かめたのかい」 「そんなこと確かめられるはずがないでしょ。でも、まともな荷物ならば、昼間運んで来るはずだわ」 「そうとは限らないだろう。なにかの事情があって、夜運んでいたのかもしれない」 「その事情が怪しいのよ。人目を憚る後ろ暗いものを運んでいるから、昼間は寝ていて、夜になると動き出すのよ」 「日野さん夫婦がなにをしているにしても、ぼくたちには関係ない。あまり他人のことに興味を持たない方がいい」 「そうはいかないわよ。泥棒が同じ屋根の下に住んでいるのよ。いつ私たちの家が狙われるかわからないじゃないの」 「仮に日野さんが泥棒だとしても、いくらなんでも同じ棟の家は狙わないだろう」 「だれがそんな保証をしてくれるの。泥棒にとって、近所が最も手っとり早い獲物よ。アパートに住んでいた女子大生が殺されて、犯人はすぐ隣りの部屋に住んでいた男だったという事件があったじゃないの」 「それは泥棒ではなくて殺人だろう」 「泥棒に入って、見つかってしまったので、居直って殺したかもしれないじゃないの。そんな人間が同じ棟に住んでいるとおもうと、怖くて夜もろくに眠れないわ」 「それにしては、毎晩、鼾《いびき》をかいてよく寝ているじゃないか」 「鼾をかいているのはあなたでしょ」  時ならぬ夫婦の諍《いさか》いになった。  日野夫婦の正体が確かめられぬまま、入居後、二度目の夏がめぐってきた。  ホームレス焚き火失火事件以後、犯罪者の侵入が危惧《きぐ》されていたが、このころ暴走族が週末の夜、この団地に集まって来て、団地敷地をサーキットに、マシンの性能を競い合うようになった。  新道路交通法の制定以後、暴走することが犯罪となってから、暴走族がハイウェイを集団で走る場面はあまり見られなくなった。  だが、彼らが絶滅したわけではない。小グループに分散し、取り締まりの網をくぐって走りつづけているのである。  暴走族の主流は四輪になったが、単車の愛好者も根強く残っている。彼らがこの陸の孤島団地の広大な敷地に目をつけて、週末の夜、集まって来るようになった。  いずれも高度にチューンアップしたマシンを駆って、孤島団地に集まり、その性能を競い合う。  車検を通過するぎりぎりまでドレスアップしたロードレーサーまがいのマシンが、大量に集合して、憂き世から切り離されたような、常ならば鼓膜が圧迫されるような静寂に支配されている団地の夜を、腸《はらわた》を突き刺すような爆音で引き裂いた。  天下の公道を走るのが犯罪であれば、陸の孤島ならば文句はあるまいというわけである。  事実、団地には交番一つなく、入居者は少ない。夜間どんなに暴れまわろうと、数少ない住人はほとんどが老人である。耳を塞《ふさ》ぎ、耳の遠い者は耳を塞ぐ必要もなく、ヤドカリのように家の中に身をすくめている。  公道を走れば警察に取り締まられるし、コースを借りれば三十分で何万も取られる。どこへも行き場所のない彼らが、陸の孤島に集まって来た。  陸の孤島団地は、走りを奪われ、社会に居場所のない彼らが、最後に見つけた楽園であった。  だが、楽園の先住民は仰天した。突如、大挙して侵入して来た凶悪な高速の鉄の化け物集団の前に、なすところなく、警察に救いを求めた。  警察では一、二台のパトカーを派遣したが、パトカーが来ると、暴走族は鳴りを静めてしまう。  パトカー要員も、ただ静かに集まっているだけの暴走族に対して、 「近所に迷惑をかけないように」  と形式的に注意をするだけで帰ってしまう。 「ぼくらは、なにも迷惑なんかかけていません。ただ、集会しているだけです」  暴走族はなに食わぬ顔で答える。彼らも警察と事を構えて、この最後の楽園を失いたくない。  パトカーが帰ると、ふたたびライトがきらめき、エンジンが咆哮《ほうこう》し、団地は暴走族のサーキットと化す。  四輪車も混じって、じぐざぐ運転やスピンターン、あるいはSS四〇〇(静止状態からスタートして四百メートルに至るまでの時間)の加速性能を競う。 「一体、どうなっちゃったのよ。静けさだけが取柄だったのが、これじゃあ新幹線のそばよりもひどいじゃないの。あなた、暴走族に注意してよ」  奈美江は言った。  初めのころは週末だけであったものが、最近は連夜のように集まってくる。入居者たちは寝不足になってしまった。 「凶暴な連中があんなに大勢群れているんだよ。警察だって手出しできないやつらに、下手にものを言ったら、袋叩《ふくろだた》きにされてしまう」 「なんとかならないのかしら。入居者がみんなで集まって抗議したらどうかしら」 「入居者が全部集まったところで、高が知れている。それに大半はよぼよぼの年寄りばかりだ」 「このまま泣き寝入りしろと言うの」 「仕方がないだろう」 「あなたはいつも仕方がないの一点張りね」  奈美江は軽蔑《けいべつ》したように鶴川を見た。  この地に入居する前は、彼女が夫をそんな目で見たことはなかった。入居してから、夫婦の間にひびが生じ、溝となり、亀裂《きれつ》となって、次第に拡がってくるようである。  暴走族は団地に集まって、ただ走りまわるだけではなかった。走り疲れると、集会をしながら飲食をする。食べ残しや包装紙、空きビン、空き缶などはそのまま放置して行ってしまう。  自然の中の清潔な居住空間が、ゴミが散乱したスラムのようになってきた。  暴走族の集会を聞きつけて、野次馬が見物に集まるようになった。ゴミもその分だけ増える。見物人が加わって、ショーは一層盛り上がる。これまでは単純に速度や技を競い合って得意になっていた少年たちが、見物人を意識して、いっぱしのプレイヤーを気取るようになった。  見物人が口笛を吹き、拍手|喝采《かつさい》して、暴走族は束の間のヒーローになった。  いまや団地は完全に暴走族に乗っ取られ、無法地帯と化した感があった。  日本国内では最高速度でも百キロに制限されている。少なくとも日本では車は速度を競う芸術品ではなく、運輸、あるいは運送機械にすぎない。  どんな低性能の車でも百キロは出るのであるから、日本ではフェラーリやランボルギーニなどのスーパーカーはまったく無用の長物である。  高速道路も常に渋滞し、高速を競い合うようにはつくられていない。  こういう社会環境の中で、百キロ以上の高速で走ることは暴走であり、無目的に走りだけを目的にする者は、暴走族か競争族とされる。  時速百キロで一秒間に二十七・八メートル、これを百二十キロで飛ばすと、一秒間に五・六メートルの差が生じる。  十分走って、わずか三・三六キロしか距離差を稼げない。一時間飛ばして二十キロの稼ぎ。百キロならばたった十分のちがいである。  なんの目的もなく、ただ速さを競うために、この十分のために命を削る。十分稼いで疲れきり、サービスエリアで二十分も休めば、結局、低速車の方が速いということになる。  だが、命をかけるに値しないものに命をかけるのが、車の魔性に取り憑《つ》かれた者である。  車社会は、車の数を増やし、危険と騒音を振りまくだけではなく、環境を汚染し、車の魔性が人間の心を歪《ゆが》めていく。  本人自身になんの魅力も才能もない人間が、車という鋼鉄の機械に自分を仮託し、性能を極限までチューンアップし、車体を改造《ドレスアツプ》する。  車から離れたら死んだようになっていた若者が、車に乗ると生気を取り戻し、別人のように凶暴になる。  ジキルとハイドは、同一の人間が善と悪の間を往復するが、暴走族は車やバイクを媒介にして、死人と猛獣の間を往来する。  それも、ただ一人ではなにもできない。群れ集まり、集団の威力を笠《かさ》に着て、凶暴なエネルギーを発散する。  団地は暴走族に乗っ取られ、速やかに荒廃していった。  入居者たちは、これまで姥捨山に置き去りにされた老人たちであったが、少なくとも彼らは姥捨山の主であった。だが、いまは暴走族が姥捨山の主として君臨していた。  姥捨山の先住人たちは、突如侵入して来て団地を我がもの顔に占領した暴走族に対して、なす術《すべ》もなく、ひたすら身を縮めていた。  また暴走族たちも、先住人たちは眼中にないかのごとく無視していた。  団地の構内を傍若無人に走りまわっていたが、先住人に対して危害を加えることはなかった。先住人がなんら抵抗しなかったので、その必要もなかったのである。  だが、ここに事件が勃発《ぼつぱつ》した。  夏が逝《ゆ》き、団地の朝夕はめっきりと涼しくなった九月上旬の週末の深夜、暴走族と入居者すべてを震撼《しんかん》させるような事件が発生した。  この日は、昼間どうにか保っていた怪しい雲行きが、夕刻から霧のような雨を落としてきた。そのために、いつもの週末よりは暴走族の集まりが悪かった。  それでも夜が更けるにつれて、おいおい集まり始め、団地の週末の夜を騒音と喚声で満たした。  暴走族は団地の構内をサーキットに見立てて、建物を中心に旋回していた。宵の口から降り始めた霧雨のために、舗装された敷地内の路面が粘体状になっていた。  このような状況下では、路面のグリップ(摩擦力)が半分に落ちて、車輪が滑りやすくなる。単車は四輪より車輪が半分になるので、グリップはさらに落ちる。  暴走族はそんなことはまったく意に介さず、いつもの週末のように団地サーキットでのロードレースを繰り広げていた。  団地を一周すると約一・五キロ、その間に四百メートルの直線コースがある。これが適度なカーブと組み合わされて、恰好《かつこう》のサーキットを提供している。  団地を何周かした先頭の二輪が直線コースにさしかかり、一気に加速した。  マシンは四〇〇cc、四気筒マルチエンジン、暴走族に最も人気の高いマシンである。  スムーズなエンジンの吹き上がり、マシンはその性能を最大限に引っ張り出されようとしていた。  その直前、前輪がなにかに引っかかった。雨に濡《ぬ》れて、路面のグリップが落ち、わずかな障害物でも転倒を誘う危険な状態である。二輪車のライダーにとって転倒は、死の淵《ふち》に臨む。  戦闘能力をフルに発揮して立ち上がった瞬間、鼻面にいきなりカウンターを食らったように、暗黒の空間に潜んでいた見えない障害物に前輪を阻止されたマシンは、ブレーキをかける間もなくもんどり打って倒れた。  マシンにまたがっていたライダーは、マシンの慣性をそのまま伝えられて、吹っ飛んだ。彼の身体はなんの緩衝も置かず、雨に濡れた硬い路面に叩きつけられた。  レーサーのように怪我を防ぐための装備はほとんど施していない。むしろマシンに乗るには最も適さない裸同然の服装が、彼らのファッションであり主張である。  さすがに一時|流行《はや》ったアロハ、甚平、女物サンダルは着けていなかったが、濃紺色のナッパ服に、夜間、視力をことさら暗くする四十五度角のサングラスを着けていたライダーは、地上に叩きつけられて全身の骨が砕け、即死した。  事故はそれだけに止《とど》まらなかった。後続車は先頭車の異変を察知して急ブレーキをかけたが間に合わず、人車一体となって転倒したまま突っ込んで来た。  後続の三台が玉突き衝突し、五台目でようやく停まった。この団地サーキットで初めての事故であった。  愕然《がくぜん》とした暴走族が現場に駆け集まって来た。先頭車のライダーは全身を強打して即死しており、後続三台のライダーが重傷を負っていた。  事故の原因が直線コースの最大加速地点に、進路を遮断する形でダブルに張られたワイヤーであることを知った暴走族は、激昂《げつこう》した。  ワイヤーは直線コースを挟んで立っている二本の杉の木の幹に巻きつけられ、マシンの進路を遮《さえぎ》る形で張られていた。  濡れた路面がライトを吸収し、サングラスが視力を落として進路に張られたダブルのワイヤーがライダーには見えなかった。見えたとしても、間に合わなかったであろう。 「だれが、こんなものを張りやがったんだ」  暴走族は騒然となった。 「団地のやつらだ」  だれかが言い出した。 「そうだ。やつらにちがいねえ」 「やつらがいやがらせをしたんだ」 「野郎、勘弁ならねえ。仇《かたき》を討ってやろうぜ」 「ぶっ殺せ」  仲間を殺された暴走族は、暴徒と化した。  彼らはレースを中断すると、群をなして団地の各棟目がけて石を投げつけたり、棍棒《こんぼう》や鉄パイプ、角材で窓ガラスを叩き割り始めた。見物の野次馬が面白がって騒ぎに加わった。  突然、団地の一隅が明るくなった。暴走族の一人が、ゴミ集積場に出されていた空きビンにマシンの燃料を詰めた即製の火炎ビンを団地目がけて投げ込んだ。たちまち他の者が真似をした。  報復の怒りに逆上していた彼らを、火の手がますます煽《あお》り立てた。仲間の死体の収容と、負傷者の手当てよりも、報復が先になった。  通報を受けてパトカーが駆けつけて来たが、しばらくは手に負えない。所轄署は機動隊の出動を要請した。  団地を占拠した暴走族約百名は、団地の建物の窓ガラスを割り、火炎ビンを投げ込み、未明まで暴れまわったが、駆けつけた機動隊二百名によって制圧され、暴走族十二人が検挙された。  暴走族一名が頭蓋骨《ずがいこつ》骨折、および内臓破裂で即死、三名が転倒に伴う全身打撲、顔面擦過傷等で重傷になり、救急車で市内の病院に運ばれた。  だが、被害は暴走族だけに止まらなかった。事故が発生したのが第一棟の側面敷地であったために、暴走族の報復の鉾先《ほこさき》はもっぱら第一棟に向けられた。特に一階の各部屋はほとんど窓ガラスを叩き割られた。  火炎ビンによる放火は、駆けつけた消防車が大事に至らぬ前に消し止めたが、一一〇八号室の住人、豊島勝治は逃げ遅れて、煙に巻かれて死んだ。飼い猫が一匹現場周辺をうろうろしている姿が見る人の憐《あわ》れを誘った。  豊島は以前から寝たきりとなっていた。そこに火炎ビンを投げ込まれ、身動きができないまま煙に巻かれて窒息したらしい。痛ましい犠牲であった。  非は団地を占拠して、暴走レースを展開していた暴走族にあるが、暴走族の怒りに点火した原因を警察は重視した。  これまで暴走族は団地の住人に危害を加えたことはなかった。暴走族もその点は心得ていて、住人に迷惑は及ぼしても、無料のサーキットを提供してくれている団地の住人を攻撃するようなことはなかった。  仲間を殺されていきり立ったのはわかるが、果たして住人が犯人であるかどうか確かめられたわけではない。  また、住人が犯人であるとしても、住人のだれが犯人か判明していない。暴走族は報復の鉾先を、住人に無差別に向けたのである。  現場は第一棟に沿った側面の敷地で、オートバイの走行を阻止した二本の強靭《きようじん》なワイヤーが、ダブルになって進路を塞《ふさ》ぐ形で張り通されている。  ここに加速したオートバイが、なんの緩衝も置かず突っ込んで来たのであるから、たまったものではない。  ワイヤーを張った犯人は、毎夜、暴走族に悩まされた団地の住人である可能性が極めて高い。  だが、身動きできなかった豊島勝治が犯人でないのは確かである。  夜毎、団地に蝟集《いしゆう》してレースを展開していた暴走族は、ひところの暴走族のようにグループを結成して、ステッカーを貼ったり、旗を押し立てたりして、集団で走っていたタイプではない。  新道交法の成立によって、解散させられた暴走族の残党や、マシンの好きな者が、走れる場所を求めて集まって来たものである。  したがってリーダーもなく、統一行動も取らない。彼らはレースを突然妨害され、仲間を殺されて逆上したのであった。  だから、仲間の収容や手当てよりも、報復を優先した。  検挙された者も、首領《アタマ》やリーダー株ではなく、最も凶暴に暴れまわっていた者を機動隊が捕まえたのである。  さすがに捕まった暴走族も、自分たちが投げ込んだ火炎ビンが、身動きできない寝たきり老人を焼き殺したと聞いて、しゅんとなった。  老人を殺した火炎ビンをだれが投げ込んだのか、いまとなってはわからない。  警察は入居者に聞き込みをしてまわり、ワイヤーを張った犯人を突き止めようとしたが、情報は得られなかった。  入居者たちはいずれも暴走族が暴れまわっている間、部屋の中に亀のように身体を縮めていたのである。  入居者は仮に犯人を知っていたとしても、黙秘したであろう。彼らは連夜、団地を乗っ取って住人の安眠を奪い、恐怖のどん底に叩き込んだ暴走族を憎んでいた。  ある老いた入居者は、はっきりと言った。 「いい気味だね。これで溜飲《りゆういん》が下がったよ。だれがやったのか知らないが、暴走族をぺしゃんこに叩き潰《つぶ》してくれた犯人に、感謝したいくらいだね」  なにも言わない入居者たちも、内心、快哉《かいさい》を叫んでいる様子がうかがわれた。  豊島の遺体は異常死体として司法解剖に付された。 [#改ページ]  孤独な先死者     1  暴走族の転倒死事件と、その報復による寝たきり老人焼死事件は大きく報道された。  暴走族に侵入された団地の住人が、自衛のために反撃して、暴走族を死に至らしめたことも衝撃的であったが、その報復の鉾先が寝たきり老人に向けられたことも、世間に深刻なショックをあたえた。  社会の反響は、団地の住人に対して同情的かつ好意的であった。その同情と好意は被害者の老人、および暴走族に反撃した犯人に向けられている。 「あなた、とうとう恐れていたことが起きたわね。でも、仲間を殺された暴走族が、このまま黙っているかしら。怖いわ」  事件の後、奈美江は怯《おび》えていた。  不幸中の幸いにも、四階の鶴川家には暴走族の報復の手は及ばなかったが、彼らが荒れ狂っていた間は、生きた心地がしなかった。 「暴走族も、なんの罪もない寝たきりの豊島さんを殺してしまって、すっかり意気消沈しているようだよ。もう二度とやって来ないだろう」  鶴川は怯えている妻を慰めた。 「私、本当に怖いの。この団地は呪われているわ。私たちが入居して来てからろくなことがないじゃないの。ホームレスが潜り込んで火事騒ぎを起こしたり、深井さんと村岡さんが相次いで死んだり、いまは暴走族が暴れまわって豊島さんが殺されてしまったわ。ねえ、あなた。どんな狭いところでもいいわ。自然や緑なんかなくてもいいから、ここから出ましょうよ」  奈美江は言った。 「たまたま不幸な出来事が重なったんだよ。今度の事件で、この団地も世間の関心を集めたから、入居者が増えるにちがいない。警察も特に警戒してくれるようになったじゃないか。これからきっとよくなる。せっかくこの地に居ついたんだ。もう少し辛抱してみよう」 「私、もう限界よ。これ以上ここにいたら、気が変になっちゃうわ」 「正彦は来年就職、正明は受験だ。ここでまた環境が変わったら、悪影響が出るかもしれないよ」  子供のことを持ち出されて、奈美江はそれ以上押せなくなった。  翌日、団地の集会所で豊島の葬儀が営まれた。豊島には子供が四人いるそうであるが、葬儀に顔を出したのは次女一人である。  豊島の葬儀は世間の同情を集めたらしく、深井と村岡の葬儀よりも会葬者が多かった。  会葬者の中に矢沢恵子の姿も見えた。彼女は豊島の晩年、小まめに身の回りの世話をしていただけに、豊島の死にショックを受けている様子である。  悄然《しようぜん》としている彼女の方が、他人目には身内に見えた。むしろ豊島の次女の方がさばさばした表情をしている。  奈美江が矢沢に声をかけると、 「奥さん、暴走族に襲われたとき、どうして駆けつけてやらなかったかと、悔やまれて仕方がないのよ。あのときすぐ駆けつければ、あるいは豊島さんを助けられたかもしれないわ。そうおもうと、なんだか私が殺したような気がして……」  と矢沢は涙ぐんだ。 「そんなに自分を責めるものじゃないわ。私たちだって、怖くて身動きできなかったんですもの。もしあのとき、下手に動いていたら、暴走族になにをされたかわからないわよ」  奈美江は矢沢を慰めた。 「仲間を殺された暴走族の無差別|復讐《ふくしゆう》の犠牲者にされてしまったけれど、豊島さんにしてみれば、傍杖《そばづえ》もいいところね」 「それにしても、一体だれがあんな針金を張ったのかしらね」 「私、そのことでちょっと気になることがあるのよ」  矢沢恵子が声を潜めた。ちょうど会葬客の列が途絶えていた。 「気になることって、なあに」  奈美江は興味をかき立てられた。 「私が言ったって、だれにも言わないでね」 「だれにも言わないわ」 「私、あの夜、暴走族がレースを始める前に帰って来たの。駐車場に車を置いて階段を上がろうとしたとき、日野さん夫婦に会ったのよ」 「日野さんたちはいつも帰りが遅いわね」 「それがね、そのとき、日野さんのご主人、手に針金のようなものを持っていたのよ」 「手に針金を持っていたですって」 「針金かどうか確かめられなかったんだけれど、とにかく針金か電線か、そのようなものだったわ」 「それは暴走族が死ぬ前のこと?」 「そうよ。それから間もなく、暴走族が針金に引っかかって死んだのよ」 「矢沢さん、このこと、もうだれかに話した?」 「いいえ、奥さんが初めてよ」 「だれにも言わない方がいいとおもうわ。日野さんが持っていたのが針金と確かめられたわけではないし、仮に針金であったとしても、日野さんが犯人だとは限らないわ」 「私もそうおもう。だから奥さんにだけ話したのよ。私一人の胸にしまい込んでおくのが苦しくて」 「わかったわ。私もだれにも話さないわ」 「約束ね」 「おたがいに」  そのときまた、新たな会葬客のグループが集会所に入って来た。  矢沢恵子の言葉は、奈美江の胸に波紋を投げかけた。以前から日野夫婦を胡散《うさん》臭いと睨《にら》んでいた。彼らならば、老人の多い入居者の中で、深夜起きていたのもうなずける。  夜な夜な出かけて行ったのであるから、暴走族の行動もじっくりと観察していたにちがいない。  暴走族の進路にワイヤーを張って家に帰り、なに食わぬ顔をしている。部屋も三階であるから、暴走族の報復の手も及ばない。  それにしても得体の知れない夫婦だとおもっていたが、おもいきったことをしてくれたものだ。おかげで、団地を乗っ取った暴走族を一掃してくれた。  犠牲者も出たが、豊島はもう充分に生きた。寝たきりになって生きていたところで、もはやなんの楽しみもない。見方によっては、介錯《かいしやく》をしたようなものであろう。  葬儀にただ一人出て来た次女の表情を見ても、荷を下ろしたようなさっぱりした顔色をしていた。  豊島には気の毒なことをしたが、自分の一身に代えて団地の敵を追い払ってくれたのだ。もって瞑《めい》すべしであろう。  奈美江は勝手な解釈をした。     2  警察は暴走族の転倒死を殺人事件と見て、捜査本部を設けて捜査を始めていた。  高速で走行して来るバイクの前にワイヤーを張ればどうなるか、犯人にはバイクのライダーが死に至るかもしれないという認識があったはずである。  毎夜のように暴走族に侵入され、夜の眠りを奪われた団地住人の怒りと、暴走族に対する憎しみはわかる。  その怒りと憎しみをワイヤーにこめて、暴走族の進路を遮《さえぎ》った。これは復讐であり、法律上の手続きを待たずに自分を救おうとする自救行為である。  法は復讐と自救行為を許していない。犯人には暴走族が死んでもかまわないという認識を越えた明確な殺意があったかもしれない。  まず、容疑者としては団地の住人が考えられる。住人の主体は老人であるが、老人でも充分可能な犯行である。  犯人は単独ではなく、複数の可能性も考えられる。 「住人が協力して、見張り役、伝令役、実行役などを分担したかもしれない」  という意見があった。  暴走族は団地入居者全体の脅威であり、迷惑であった。複数の住人が、あるいは全員が協力しても、なんら不思議はない。となると、捜査は著しく困難となる。 「犯人は団地の住人とは限定できない。団地の周辺にも民家が散在している。これらの住人にとっても、暴走族は共通の迷惑であった。彼らも犯人、あるいは協力者として除外できないのではないか」  という意見が生じた。となると、捜査範囲は拡大される。  住人のある者は、犯人に対して感謝したいくらいだと明言して憚《はばか》らないくらいであるから、聞き込みに目ぼしい成果は上がらなかった。  住人全体が協力して、黙秘しているようにも見えた。  捜査は立ち上がりから難航した。     3  豊島勝治の遺体は司法解剖に付された。その結果、死因は窒息と鑑定された。  死因は室内にこもった煙による窒息と推定されていたので、検視の第一所見と符合していた。  だが、解剖によって奇妙な事実が判明した。気道、ことに気管の粘膜や肺臓の気管支内、また肺胞の中に煤《すす》が吸い込まれていないのである。  煙に巻かれて死んだのであれば、必ず肺胞の組織や細胞の中に炭抹が取り込まれている。つまり、豊島は火炎ビンを投げ込まれたときは、すでに死んでいたことを解剖所見は示していた。捜査本部は緊張した。 「豊島は寝たきりで身動きできなかったので、なにかのきっかけで、蒲団《ふとん》その他の物体が鼻口を塞いで自力で取り除けられず、窒息してしまったのではないのか」  という意見が出た。 「身動きできないとはいうものの、鼻口を覆った蒲団くらいは取り除く力はあっただろう。仮にその力がなかったとしても、蒲団が顔に被《かぶ》さったくらいでは窒息しない」  と反駁《はんばく》された。  すると、なにかの外力が働いて、豊島を窒息させたことになる。その外力とはなにか。 「先に同じ棟に住んでいた二人の老人が相次いで死んだが、それとは関係ないだろうか」  べつの捜査員から新たな意見が出た。 「二人の死因は餓死だった。事件性は認められない。豊島の死因とは無関係と見てよいのではないか」 「もし豊島が何者かに殺害されたとすれば、犯人には犯行後、暴走族から豊島の部屋に火炎ビンを投げ込まれるという予測はつかなかったはずだ。すると、犯人は前に死んだ二人の寝たきり老人と同列の死に見せかけようとしたのではないか」 「解剖されれば、死因が異なることはすぐにわかってしまうだろう」 「事件性なしと判断されれば、解剖はされない。もともと豊島は寝たきりになっていた。いつ死んでもおかしくないという状態にあった。彼が死ねば、三人目の老人の孤独死と判断される可能性は充分にあった」 「ワイヤーの犯人と豊島の死因との関連性はないだろうか」  これはまたべつの見方であった。 「ワイヤー犯人の行為が暴走族を怒らせ、豊島老人の死を導いたことになり、まったく関連性がないとは言えないが、直接の関連があるとはおもえないね」  直接の関連とは、ワイヤー犯人と豊島を窒息させた犯人が同一人物か、あるいは共犯関係にあったのではないか、という意味である。  犯行手口も異なるし、暴走族と豊島老人に共通の動機を持つ人間がいたという想定にかなり無理がある上に、同一犯人、あるいは共犯者が謀《しめ》し合わせて、ほぼ同時に犯行を実行したとは考えにくい。  豊島の死因に犯罪性があるとしても、犯人はワイヤー犯人とは別人であろう。ワイヤー犯人に引金を引かれた暴走族の暴発という予期しなかった事件が発生しなければ、豊島老人の死因は寝たきり老人の孤独死として処理されてしまったかもしれない。  豊島を窒息させた(未確認)犯人にとっては、暴走族をけしかける必然性はまったくなかった。  豊島勝治の不可解な死因は、事件を複雑なものにした。  ワイヤー殺人と豊島の死に関連性があれば、連続殺人事件となる。別件の独立した事件であれば、二件の犯人は期せずして相前後して行動を起こした。  豊島殺し(未確認)の犯人は、以前に死んだ二人の寝たきり老人の連続死の陰に隠れて、完全犯罪を企《たくら》んだことになる。  予期せざる暴走族ワイヤー殺人によって犯行が現われてしまったが、巧妙な犯行手口である。  老衰した寝たきり老人の鼻口を塞《ふさ》いで窒息させるのは、赤子の手をひねるように易しい。  豊島勝治は心臓に疾患があった。本年八十五歳。係累は四人子供がいるが、いずれともほとんど没交渉である。  心臓に障害を抱えた寝たきり老人の孤独死に、犯罪性を疑う者はあるまい。  自殺の可能性も検討されたが、自分自身で気道を閉鎖するのは不可能であるとして、否定された。  豊島は六十歳で新宿にあるターミナルデパートを定年退職後、都内のホテルに嘱託の総務課長として迎えられ、六十三歳でその職を辞した後、しばらく長男一家と同居していたが、その後、四人の子供の家をたらいまわしされ、昨年六月、団地の竣工《しゆんこう》と同時に入居した。  寝ついたのは今年一月であるが、それまでは本を読んだり、近所を散歩したりして、年金で悠々自適の暮らしをしていた。  子供たちや近所の者に聞いても、他人《ひと》から怨《うら》みを買うようなタイプではなかった。  豊島が寝ついてから、時どき食べ物を運んだり、身の回りの世話をしていた同じ棟の住人、矢沢恵子にも事情が聴かれたが、怨んでいる人の心当たりはないという返答であった。  現役時代は真面目で、他人の面倒みがよくて、部下や上司の評判もよかったそうである。  そこを買われて、デパートを定年後、ホテルの総務課長にスカウトされたという。  放っておいても間もなく死んでしまいそうな老人を、一体、だれが、どんな理由で殺したというのか。  豊島の遺品が調べられた。遺品の中に犯罪の資料や死の理由を物語るものがあるかもしれない。金目のものはほとんどなく、身の回りの品や、衣類、書物、雑品が主体であった。  郵便物、メモ、写真類は特に丹念に調べられた。そこに本人の生活の歴史が記録されている。趣味であったらしい写真は、道祖神や野仏が撮影されている。  豊島には日記をつける習慣はなかったらしい。遺書のようなものも発見されなかった。  遺品の中に、絹糸でつくった赤い手鞠《てまり》があった。  所轄署の増成が、その手鞠に注目した。 「こんなものをどうして持っていたんだろう」  老人の遺品としては変わっている。 「孫にでももらったんじゃないのかい」  相棒の池亀《いけがめ》が言った。 「いや、豊島の孫は、すでにいずれも成人している。こんな手鞠で遊ぶような孫はいないよ」 「それじゃあ、曾孫《ひまご》じゃないのか」 「そうだな。曾孫までは考えなかったが、早速聞いてみよう」  子供たちに問い合わせたところ、長男と次女の子がすでに結婚して、豊島にとっては三人の曾孫がいたが、いずれも男の子であった。  手鞠を彼らにも見せたが、いずれも心当たりがないと答えた。 「すると、手鞠は身内からもらったものではないね。こんなものを八十五歳の老人がなぜ持っていたんだろう」 「年寄りが手鞠を持っていても、べつに不思議はないだろう」 「まあ、不思議はないがね。どうも遺品の中で浮き上がっているんだな」  増成は釈然としなかった。  豊島勝治が手鞠を作る趣味を持っていたとは聞いていない。彼の身辺に手鞠で遊ぶような幼児は見当たらない。  手鞠は絹糸で作った手製のもので、愛用していたらしく、汚れている。  増成は豊島が手鞠を持っていたのには、それなりの理由があったにちがいないとおもった。その理由が、彼の死因に関わっているような気がした。  増成は検挙された暴走族十二人、一人一人に手鞠に心当たりがないか問うた。彼らはいずれも首を振った。 「ガキの女の持つ手鞠なんか突きながら、走れねえよ」  と彼らのある者は嘲笑《あざわら》った。  事件発生当夜、団地に集まっていた暴走族は約百名、見物の野次馬は三十名ないし五十名と推測された。  野次馬は近所の者が多かったが、暴走族も全盛時代のようにグループを結成しているわけではない。集まった暴走族相互も、それぞれの素性を知らない。  暴走族に対する手鞠の追及は、そこで断たれた。  だが、増成も暴走族と手鞠に関わりがあるとはおもっていない。可能性の一つとして当たってみたのである。  彼自身も、ワイヤー殺人と豊島勝治殺しは別件と見る方に傾いている。  増成には、手鞠について、もう一つ不可解なことがあった。  もし豊島を窒息させた犯人と手鞠が関わりのあるものであれば、犯行後、犯人が手鞠を持ち去ったはずである。  手鞠はすぐ目に触れる場所には置いてなかったが、容易に探し当てられる場所に保管されてあった。  犯人が手鞠を現場に放置して行ったのは、手鞠の存在に気がつかなかったか、あるいは気がついたとしても関心がなかったことを示している。  犯人にとって無関心の関係資料とは、どういうものであろうか。この使い古された手鞠は、どこから来たのか。  増成は相棒の池亀に諮った。 「豊島は入居一年余、寝ついてから約八ヵ月、その間に他人《ひと》の怨みを買ったようなことはない。とすると、動機は入居前に培われていたことになる。爺《じい》さんの入居前の生活圏を少し洗ってみようとおもうが、どうだろう」 「捜査本部は揺れているな」  池亀の表情も迷っている。  捜査会議の大勢としては、暴走族殺しと豊島の事件は別件と見る方向に傾いている。  もし別件と確定すれば、同じ所轄署に二つの捜査本部が併設されることになる。関連事件、あるいは別件いずれにしても、確定するまでは同一捜査本部が捜査に当たることになる。  ということは、まだ二件の関連性を否定しきれないことを意味する。  増成の意見は捜査会議で認められた。  豊島勝治は団地入居前、世田谷《せたがや》区内の次女の婚家に同居していた。葬儀に出席していたただ一人の身内である。 「私は父に一緒にいてもらいたかったのですけれど、父の方から別居したいと言い出して、ちょうど目に入った広告を見て、団地に入居したのです。父が団地を購入するお金を持っていたことは知りませんでした」  次女の表情は、そんな金があれば、同居して世話をしていた自分に残してくれればよかったのにと、残念がっているようである。 「お宅に同居中、父上は他人の怨みを買ったようなことはありませんでしたか」 「その点については、すでにお答えしましたけれど、父は生前、仏《ほとけ》の勝治といわれたほどのお人好《ひとよ》しで、他人の怨みを買うようなことはございませんでした」  次女は語気を強めた。 「父上はお宅に同居中、どんな暮らしぶりをしていらっしゃいましたか」 「どんな暮らしぶりと言われましてもね、べつに決まった仕事を持っていたわけではありませんから」 「毎日、どんなことをしていましたか」 「朝起きると、まず犬を連れて散歩に行くのが日課でした。散歩から帰って来ると、朝ご飯を食べて、ゆっくり新聞を読んで、庭の手入れをして、それから昼寝をしました」 「その後は?」 「気が向くと、また犬を連れて散歩に出かけます。夕食を摂《と》ると、テレビを少し見て、たいてい八時ごろには床に入っていました」 「毎日、そんな暮らしぶりでしたか」 「ほとんど変わりありません。そうそう、父は月が好きでして、月の綺麗《きれい》な夜は、夜中に起き出して月を見に行くことがありました」 「ほう、月見に?」 「寒いときは、風邪をひくといけないからやめるようにと注意したのですが、寒い時期の方が空気が澄んで、月が綺麗に見えると言って出かけて行きました」 「父上が犬の散歩や月見に出かけて、先日、お尋ねした手鞠を拾って帰って来たことはありませんか」 「さあ、気がつきませんでしたけれど、ソロモンは好奇心が強くて、興味を持ったものをくわえて来る性格がありますので、もしかしたら私の気がつかない間に、手鞠をどこかでくわえて来たかもしれませんね」 「ソロモンというと」 「うちの犬です」 「すると、ソロモンが手鞠をどこからかくわえて来た可能性はありますね」 「私は確かめていませんが、ソロモンがあんな手鞠を見つけたら、必ずくわえて来たとおもいます」 「それを父上は、あなたが知らない間に保管していたのかもしれませんね」 「でも、どうしてそんなものを保管していたんでしょう」 「そのことについて、いま調べています。父上の散歩コースはわかりますか」 「はい。ソロモンがおぼえていますので」 「月見の方はどうですか」 「月見にはソロモンを連れて行くと気が削がれると言って、一人で出かけましたが、月見神社の境内からの月が綺麗だと言っていました」 「月見神社?」 「家から十分ほど行ったところにあります。月見の名所で近所ではそう呼んでいます。正確な名前は知りません。ちょっと家並みが切れて、夜は寂しい場所です」 「お手数ですが、父上の散歩コースと月見神社の位置を地図に描いていただけないでしょうか」  次女の家を訪問して、新たに犬の散歩と月見という豊島の生活史の知られざる側面が浮かび上がってきた。  特に犬の存在は新しい発見である。犬ならば手鞠を見つけたらくわえて来るであろう。  次女もソロモンが手鞠を見つけたら、必ずくわえて来るはずだと言った。  犬が手鞠をくわえたことは、なんら珍しいことではない。問題は、犬が拾った手鞠をなぜ豊島が後生大事に保管していたかということである。  手鞠は豊島に特別な意味を持っていたにちがいない。その意味を知りたい。そこに、豊島の死の謎が隠されているかもしれない。  次女に描いてもらった地図を手にした増成は、豊島の生前の散歩コースをたどる前に、所轄署に挨拶《あいさつ》に立ち寄った。  他の警察署の管内で捜査するときは、所轄署に挨拶をするのが筋である。筋を通しておくと、地元署の協力が得られて、情報も手に入りやすくなる。  増成に応対してくれたのは、永井《ながい》という年配の刑事であった。 [#改ページ]  最後の一窓     1  世田谷区内の路上で発生した轢《ひ》き逃げ事件は、迷宮入りした。  被害者は二十一歳のOLで、帰宅途上に奇禍に遭《あ》った。  被害者の遺体は下腿骨《かたいこつ》骨折、腰椎強打、頭蓋骨《ずがいこつ》骨折の典型的交通事故の様相を呈していた。  歩行中、車体の前部バンパーと接触し、ボンネット上にすくい上げられ、フロントガラスに激突して、路上に叩《たた》きつけられたという典型的な交通事故による損傷である。  事故発生直後、現場地域を激しい雷雨が襲って、現場に豊富に残されていたはずの加害車両の遺留資料を洗い流し、捜査の行手を阻んだ。  被害者の遺体は解剖に付されて、直接の死因は頭蓋骨骨折に伴う脳挫傷《のうざしよう》と鑑定された。  なお被害者には生前の情交|痕跡《こんせき》が認められた。彼女の体内からはAB型の精子が証明された。  被害者の性器には破損した処女膜が認められ、これが合意による情交か、凌辱《りようじよく》か定かではないが、いずれにしても生前、初めての性交、あるいは極めて性交の経験が少ないと推定された。  玉川署の永井は、この遺体の状況に不審を持った。情交痕跡は当然、パートナーの存在を推測させる。彼女が轢き逃げ被害に遭ったとき、パートナーはどこにいたのか。  パートナーと別れた直後、轢き逃げ被害に遭ったとも考えられるが、もしそうであれば、パートナーは彼女の被害を知ったはずである。  それにもかかわらず、パートナーは名乗り出ていない。パートナーに名乗り出られない事情があったのか。  永井は被害者の家族や職場に聞き込みをしたが、親しくしている特定の男性はいないということであった。  被害者は昨年春、短大を卒業して、入社一年であるが、明るく真面目で勤勉であり、職場の評判は抜群であった。  学生時代にも、特に親しくしていた男性はいなかったという。  彼女は二十一歳にして、人生の初体験、あるいは初体験に等しい異性交渉を持った後、花の蕾《つぼみ》のまま若い命を、疾走して来た凶器によって奪われてしまったのである。  相棒の寒河江《さがえ》刑事が、 「轢き逃げの加害者が、正体のない被害者を凌辱したという可能性はありませんか」  と突飛な意見を出した。 「それは無理だろう。車に接触して、血浸《ちびた》しの雑巾《ぞうきん》のようになっている被害者を、加害者がレイプしようという気になるものかね。轢き逃げの加害者は動転して、現場から逃げたんだ。轢き逃げ発生後、一刻も早く現場から逃げようとしている加害者の心理として、被害者をレイプしようという気にはとうていなれないはずだ」  永井は寒河江の意見を一蹴《いつしゆう》した。 「それでは、情事のパートナー、あるいはレイプの犯人と轢き逃げの加害者が別人ということですね」 「おれはそうおもっているよ。被害者は初めて、あるいは性体験が極めて浅かった。情事、レイプいずれにしても、性体験の浅い被害者が、その直後に呆然《ぼうぜん》として現場を歩いていて、車に轢かれたと見ている」 「もし、彼女がレイプされたとすれば、二重の被害に遭ったことになりますね。災難のダブルパンチだ。こういうのを泣きっ面にアブと言ったかな」 「蜂だよ。蜂にしても、その一刺しが致命傷になった」 「レイプされただけなら、その傷はいずれ治りますが、レイプのショックが原因となって車と衝突したとなると、レイプ犯人の責任は一層重大ですね」 「レイプでなくとも、責任は重大だよ。被害者が生前に情交をしなかったなら、轢き逃げに遭わなかったかもしれない。処女をいただいた女が轢き逃げに遭っているのにとぼけている野郎も許せない。地の果てまでも追いかけてやる」  永井は心に期した。     2  世田谷区内の用水路に転落して溺死体《できしたい》となって発見された幼女は、人々の同情を集めた。  養家に馴染《なじ》まず、いつも寂しげにしていた幼女の姿は、近所の人々に悲しい陰翳《いんえい》を投げかけた。  幼女のただ一人の遊び相手であった少年も、その後間もなく引っ越してしまった。  幼女の死後、養親が、いつも幼女が持っていたはずの手鞠《てまり》が見えないと言い出した。  ヘチマを芯《しん》にして絹糸を巻いて作った赤い小さな手鞠を、幼女が身体の一部のようにいつも持っていた。その手鞠が消えてなくなっているという。  幼女が落ちたと推測される地点や、死体となって発見された下流まで、くまなく捜索されたが、手鞠は発見されなかった。  暴走族団地ジャック事件以後、団地はますます荒廃を深めていくようであった。  入居している区分は修復されたが、火炎ビンで焼燬《しようき》された無住区分の室内や、割られた窓ガラスは修復されずに、そのまま放置された。修復しても、入居者の来る見込みがなかったからである。  事件以後、さらに数戸の入居者が出て行った。彼らはこの地に生活の根を下ろすのをあきらめ、新たな土地に新たな可能性を捜し求めて行った。  奈美江は自分たち一家が孤島に置き去りにされていくように感じた。時を移せば移すほど、入居者が去って行く。残されているのは自分たち一家と、おおかた老人ばかりである。  老人は自分たち一家よりも早く死んでしまうであろう。奈美江は鶴川家が団地の最後の住人になるような気がした。  現在はまばらながら、窓の灯がぽつりぽつりと残っている。それがいずれは最後の一窓になってしまうであろう。  奈美江は暗黒の中に、ただ一戸だけ灯《とも》し残されている窓の光景を想像して、慄然《りつぜん》とした。  団地に入居してから、家族は私室を一つずつ持った。入居以前は、たった二部屋で家族のプライバシーはなく、一緒に生活していた。寝室も夫婦が一室、子供たち二人が一室に一緒に寝た。  家族のプライバシーはなかったが、それだけ密着していた。家族の一体感が濃厚であった。  だが、団地に入居以来、家族はそれぞれの私室に閉じこもり、プライバシーの垣根を張りめぐらしてしまった。垣根による隔離が、夫婦、家族を隔てる距離となった。  入居以前には、家族の間に気まずいことがあっても、狭い部屋の中で一体となって暮らしている間に、融和してしまった。  ところが、夫婦間の溝や、家族の不協和音はプライバシーの垣根によって修復されないまま放置された。  以前ならばなんでもないようなことが、家族の間のしこりとなって残った。  入居当時は、家族一人ずつに保障されたプライバシーと私室が新鮮なカルチャーショックであったが、住み慣れてくると、家族の中における孤立感が深くなった。  たった四人の家族が、一日のうちで顔を合わせることがほとんどない。  正彦と正明は朝食を摂らずに出かけて行くことが多く、家族が夕食で顔を合わせることも少なくなった。週末や休日の夕食ですら、外で食べて帰ることが多い。  五LDKの同じ屋根の下に住みながら、家族がなにをしているのか、まったくわからない。  以前ならば、夫がどんなに忙しくとも、夫婦は同じ寝室で眠った。夫婦がべつの部屋で眠るということは、当然の結果として夫婦関係が希薄になっていく。  夫婦生活と比例するように、家族の一体感が薄れてきた。  奈美江は陸の孤島に置き去りにされると同時に、家族間でも孤立化するのを感じた。  廃墟《はいきよ》のような暗い団地の壁面に、ただ一つ灯火の残る窓の中で、ただ一人置き去りにされた自分。これが家族の多年の夢であった終《つひ》の栖《すみか》であるのか。 「このままいくと、私たち駄目になってしまうかもしれないわ」  奈美江は鶴川に訴えた。 「どうしてそんなことを言うんだ。家がちょっと辺鄙《へんぴ》な場所にあるというだけで、けっこう快適な生活じゃないか。暴走族もいなくなったことだし、これからなにもかもうまくいくようになるとおもうよ」  鶴川は事態をそれほど深刻には受けとめていないようである。 「あなたがどうしてもここに居つづけると言い張るなら、私一人でも出て行くわ。家族が一緒に住める場所が見つかるまで、私一人別居したいわ」 「馬鹿なことを言うな。来年は正彦は就職で、正明は受験だぞ。母親のきみが子供たちやぼくを置き去りにして、どうなるとおもうんだ。世間知らずの娘のようなことを言うもんじゃない。そんなことが許されるとおもっているのか」  鶴川は一喝した。  子供を持ち出されて、奈美江の母性本能が目覚めた。どんなに団地から出たくとも、子供を置き去りにはできない。  夫とは離れられても、子供を捨てるのは奈美江の要素を捨てることであった。  奈美江のせっかくの決心がぐらついた。     3  玉川署に挨拶《あいさつ》に立ち寄ると、永井という年配の刑事が歓迎してくれた。穏やかな風貌《ふうぼう》の底に、人生の年輪が刻まれているような老練の刑事である。 「なにかお役に立つことがありましたら、遠慮なく申しつけてください」  永井は如才なく言った。  増成は手鞠の出所を洗いに来たことを告げた。  増成の話を聞いているうちに、永井の表情が緊張してきた。 「それは赤い絹糸で作った手製の手鞠ではありませんか」  永井は問い返した。 「そうです。なにかお心当たりがあるのですか」 「実は昨年五月下旬、我が方の管内で幼女が用水路に落ちましてね、下流で水死体となって発見されました。その幼女がいつも持っていた手鞠が、どこを捜しても見つかりませんでした。遺体が発見されたのにもかかわらず、なぜ手鞠だけが失われたのか。その点に引っかかりましてね、幼女の生前の足取りを追って捜していたのですが、これまで捜し出せずにおりました」 「豊島勝治の散歩コースを、娘さんに地図に描いてもらいました。どうでしょう。彼の散歩コースの中に、幼女が落ちた用水路がありますか」  増成は永井に地図を示した。  地図を睨《にら》んだ永井の顔色が改まった。 「ばっちり入っていますね。散歩コースの途中に、幼女が転落したと推測される場所がかかっています。この箇所です」  永井は地図の一点を指さした。 「ここが転落箇所と推測されている地点ですか」 「そうです。ちょうどこのあたり蓋《ふた》がまばらになっていて、用水路が露出していました。幼女はこの蓋の隙間から用水路に転落した際、手鞠だけ地上に落とし、その後に豊島が通りかかって手鞠を拾ったというわけですか」 「順序としてはそうなりますね。幼女が用水路に落ちる前ならば、手鞠を手放しているとはおもえません。落ちたはずみに手鞠を放し、幼女は用水の流れにさらわれ、手鞠だけが地上に残ったのでしょう」 「そこへ豊島が犬を連れて散歩に来合わせた。犬がくわえ上げた手鞠を豊島が保管した。しかし、なぜ手鞠なんかを保管したんでしょう。もし豊島が、幼女が用水路に転落したのを見ていれば、直ちに救助したはずですし、幼女が落ちた後、手鞠だけを犬がくわえて来たのであれば、豊島がなぜそれを保管したのか理由がわかりません」  単に保管しただけではなく、次女の家から団地へ移った際も一緒に持って出た。なぜ手鞠に対して、それほど強い関心を持ったのであろうか。 「幼女の家は用水路の近くです。幼女はその周辺を遊び場所にしていました。豊島は散歩の途次、幼女によく出会って、手鞠が幼女のものであることを知っていたのかもしれません。幼女の手鞠だけが落ちていたので、不審におもって、後で返すつもりで保管していたのではないでしょうか」  永井は言葉を補った。 「間もなく幼女の死体が発見され、豊島は返すきっかけを失って、手鞠を団地まで一緒に持ってきたというわけですね」  となれば、手鞠は事件になんの関わりも持たないことになる。増成の心身に徒労感が重く澱《よど》んできた。  やはり自分のおもいすごしであったのだろうか。犯人が手鞠と関わっていれば、犯行後必ず持ち去ったはずである。  増成は徒労感の底で手探りするように、 「幼女が用水路に転落したとき、目撃者はいなかったのですか」  と永井に問うた。 「目撃者をずいぶんと捜したのですが、いませんでした」 「目撃者がいながら、名乗り出ないということはありませんか」 「そうですね。関わり合いになるのを恐れて名乗り出ないということはあり得ますね。幼女が転落するのを目撃しながら、なにか事情があって見過ごした人間がいるとすれば、名乗り出ないでしょうね」 「いまふとおもい当たったのですが、もう一つ可能性があります」 「もう一つの可能性というと?」 「幼女は用水路に誤って転落したのではなく、だれかに突き落とされたのではないでしょうか?」 「だれかに突き落とされた」  永井が愕然《がくぜん》とした表情になった。 「そうです。だれかが幼女を突き落とし、その場面を豊島が目撃していたとしたら……」 「し、しかし、だれが、なぜ、幼女を突き落としたのですか」 「わかりません。私の推測にすぎないことですから」 「仮に何者かが幼女を突き落とし、その場面を豊島が目撃したとすれば、なぜ豊島は黙っていたのでしょうね」  永井が増成の推測を踏まえて疑問を呈した。 「これも推測ですが、いくつかの可能性が考えられます。まず豊島が幼女を突き落とした犯人を恐喝している場合、あるいは犯人を庇《かば》っている場合です」 「なるほど。その恐喝材料として手鞠を保管していたというわけですか」  永井の目も次第に光ってきた。増成の推測に傾いてきている証拠である。  もともと永井も幼女の用水路転落に疑問を持っていた。疑問のきっかけに手鞠があった。彼女がいつも持っていたはずの手鞠が失われていた。手鞠を持ち去ったのはだれか。そこから永井の疑惑はスタートした。  増成の推測は永井の疑惑を裏づけるものであった。もし増成の推測が的を射ていれば、豊島を窒息させた犯人は、幼女の線から来ている。  幼女を用水路に突き落とした犯人が、豊島に現場を目撃され、恐喝されていたか、あるいは目撃された事実を認識していたとして、豊島の口を永久に塞《ふさ》いだという推測が可能となる。 「もしそうだとすれば、どのみち先行きの長いことはない寝たきりの豊島を、なぜここへきて急に殺そうという気になったのでしょうね」  永井は増成の推測を阻むネックを問うた。 「寝たきりになったということが、一つの理由ではないでしょうか。豊島は先行き短いのを知って、いつ遺言の形で自分が目撃したことを話すか、書き残すかわからない。もう一つは暴走族です」 「暴走族?」 「暴走族が、豊島の入居していた団地に夜な夜な集合して、その敷地をサーキットにしていました。そのために所轄のパトカーが重点|警邏《けいら》をしていました。犯人にしてみれば、にわかに警察が団地をマークしてきたのは脅威であったとおもいます。何者かが暴走族の進路にワイヤーを張って、暴走族を殺傷したのと、豊島が死んだのと、どちらが後先か際どいところで確かめられません。もし暴走族が殺傷されたのが少し前だったとすれば、それを知った犯人が、警察の捜査が開始される前に豊島に止《とど》めを刺したと考えられます」 「すると、豊島殺しの犯人は、団地の入居者か近所の住人ということになりますね」 「私はそのように考えています。暴走族が仲間を殺傷されて報復を始めるまでに、多少の時間差がありました。その間に犯人は豊島を殺害したのかもしれません。捜査本部では豊島の解剖所見が、火炎ビンを投げ込まれる以前に、すでに死んでいた状況から、暴走族の殺傷事件前にすでに豊島は死んでいたとおおかたは見ていますが、私は暴走族の殺傷事件後でも豊島を殺す時間はあったと考えています」 「実はですね、いまこの地図を拝見して、もう一つ気になったことがあるのですが」  永井が増成の顔色を探るように見た。 「もう一つ気になることとおっしゃいますと」 「豊島勝治の散歩コースに月見に行ったという神社が書き込まれていますね」 「豊島は月が好きで、月の綺麗《きれい》な夜は、夜中に起き出して月見に出かけたそうです」 「そのことですが、この神社も私どもの管内でして、月見の名所であるところから、地元では月見神社と呼ばれています。この月見神社の近くで昨年五月二十三日、轢《ひ》き逃げ事件が発生しています」 「昨年の五月二十三日と言えば、幼女が用水路に転落した少し前ですね」 「そういうことになります」  二人はたがいの目の奥を見合った。ある共通のおもわくが二人の胸の底で醸成されている。  今度は永井が轢き逃げ事件についての詳細を増成に告げた。 「すると、永井さんは、被害者のOLが轢き逃げされる前に、何者かにレイプされたと疑っておられるのですか」  聞き終わった増成は問うた。 「その疑いをもっております。レイプされたショックによる虚脱状態のまま加害車両に遭遇したとすれば、避けきれなかったかもしれません。しかし、私がいま気になっているのはそのことではなく、轢き逃げ発生地点が、豊島勝治の月見の場所の近くだということです。当夜、豊島が月見に出かけていれば……」 「轢き逃げの現場に行き合わせたかもしれませんね」 「豊島が轢き逃げの現場を目撃していたとすれば、それは彼の死因に関わってこないでしょうか」  もし豊島が轢き逃げの現場に遭遇して犯人を見ていれば、豊島は犯人の弱味をつかんだことになる。豊島の死因につながる新たな線が生まれかけていた。 「すると、轢き逃げの犯人は、豊島の入居先まで追跡して行ったことになりますね」 「轢き逃げ犯人だけではありません。被害者が轢き逃げに遭う前にレイプされていれば、豊島はレイプの現場も見ていたかもしれませんよ。そうなると、レイプの犯人にとっても豊島は脅威になります」 「レイプだけならば、犯人にとって致命的な弱味にはなりませんが」 「レイプが原因で、レイプ直後に轢き逃げされたとあれば、レイプ犯人にとっては自分が殺したような気がするかもしれません。また犯人の立場によっては、レイプのような破廉恥《はれんち》犯罪が表沙汰《おもてざた》にされれば、致命的であるかもしれません」 「もし豊島が現場に行き合わせていれば、レイプと轢き逃げの両方の事件を目撃していたかもしれないと……」 「その可能性もあります」  彼らは早速、豊島の次女に轢き逃げ事件発生当夜、豊島が月見に出かけたかどうか確かめた。  昨年五月のことであったが、次女は幸いに日記をつける習慣があって、当夜、豊島が月見に出かけた事実が確認された。  ここに二人の推測は一つの裏づけを得た。  だが、幼女用水路転落事件、またOL轢き逃げ事件にしても、事件現場がたまたま豊島の散歩コース、および月見場所と重なったというだけで、豊島が事件を必ずしも目撃したことにはならない。  また、仮に目撃したとしても、両事件の犯人と(幼女の死因の犯罪性は不明)豊島の死は直接つながらない。  あくまでも増成と永井の推測の域を出ない。捜査本部を納得させるまでには、まだまだ前途遼遠《ぜんとりようえん》であった。  手鞠を幼女の養親に見せたところ、たしかに幼女のものであることを認めた。  ともあれ手鞠の出所を突き止めたことは、一つの収穫であった。 [#改ページ]  失踪《しつそう》した隣人     1  暴走族ワイヤー殺傷事件の後、暴走族は跳梁《ちようりよう》しなくなったが、入居者の死が相次いだ。  いずれも高齢の老人たちで、団地集会所での葬儀はますます寥々《りようりよう》たるものになった。 「いまのうち死んだ人はまだいいよ。最後に死ぬ人間は、だれも焼香に来てくれない」 「あーあ、最後に死ぬ人間にはなりたくないね」 「先に死んでも後から死んでも、一人で死ぬのは同じだよ。死んだ後のことはわからない」  老いたまばらな会葬者たちはささやき合った。  入居者の死が相次いだのは、暴走族に暴れ込まれたショックで、寿命が縮まったのだろうというもっぱらの噂であった。  会葬者のひそひそ話を聞くともなく聞きながら、奈美江は少なくとも老人たちよりは先には死なないだろうとおもった。  となると、年齢からして最後に死ぬ者は奈美江である確率が高くなる。夫はすでに他人同然である。奈美江が死ぬころには、息子たちも団地から出て行っているだろう。  自分一人を残して、すべての入居者が死に絶えたか、移転してしまった後の暗く荒廃した団地で、だれに看取《みと》られることもなく、ひっそりと死んでいく自分の姿を想像すると、奈美江はぞっとした。  その死体すら、だれにも発見されることなく、白骨となって、団地の建物と共に朽ちていく。自分のおぞましい将来の想像図に、奈美江はぶるっと全身を震わせて、周囲を見まわした。  これまで会葬者の中に必ず見かけた矢沢恵子の姿が見えない。そう言えばここ数日、彼女の姿を見かけないようである。  彼女もとうとう団地を見限って出て行ってしまったのであろうか。もし矢沢が出て行ってしまえば、女の入居者としては自分が最も若手になるかもしれない。つまり、最後に死ぬ確率がそれだけ高くなったことになる。  奈美江はそれとなく顔見知りの入居者に、矢沢恵子の消息を問い合わせた。 「あら、そう言えばこのごろ、矢沢さんを見かけないようだわねえ」 「べつに引っ越したという話も聞かないから、どこかに旅行でもしているんじゃないの」 「あの人、もともと男の人を取っかえ引っかえしていた様子だったから、また新しい男をくわえ込んで、どこかへ旅行でもしているんじゃないの」  入居者たちは気にも止めていない様子である。  奈美江は気になったので、一四〇三号室の前に行ってみた。郵便受けを見ると、ダイレクトメールが数通、ピックアップされずに溜《た》まっていた。日付を見ると、それほど古くない。  ベランダの方にまわってみると、取り忘れたらしい洗濯物がぶら下がっている。奈美江は少しほっとした。どうやら転居したのではなさそうである。  矢沢恵子はいまや奈美江にとって、数少ない�同志�であった。老いた入居者の間で、恵子だけが最も年齢の接近した話の通じる世代である。  やはり入居者たちが噂し合っていたように、男と一緒に旅行にでも出かけたのかもしれない。  だが、その後当分の間、注意していても、ベランダの洗濯物は一向にしまい込まれない。郵便物の方も少し増えている。  海外旅行に出かけたにしても、少し長すぎるような気がする。それに長期不在にするのであれば、洗濯物を取り込んでいくはずである。  入居者のだれもが、矢沢から転居の挨拶を受けていない。奈美江は心配になってきた。  奈美江は矢沢恵子が暴走族ワイヤー殺傷事件、および豊島老人の死以後、行方を晦《くら》ましたらしいのが気になった。  もしかすると、矢沢恵子の蒸発と、この二つの事件との間になにか関係があるのではないだろうか。  不審の念を誘われた奈美江は、思案を凝らした。  奈美江はふと、恐ろしい想像に行き当たって、はっと身体を硬くした。  その夜、鶴川が帰って来ると、奈美江は早速、自分の想像を鶴川に告げた。 「あなた、このごろ矢沢さんの姿を見かけないのよ」 「それがどうしたんだい。どこかに旅行でもしているんじゃないのか」  鶴川は他の入居者同様、気にもかけていない様子である。 「それが、どうもそうではなさそうなの。ベランダに洗濯物を出したままだし、郵便物だって取り込んでいないわ」 「忘れているのかもしれないよ」 「でも長期、家を空けるのに、若い女性が洗濯物を忘れたままで行くかしら」 「いいじゃないか、べつに忘れて行っても。せいぜい下着泥棒に狙われるくらいだ」 「痴漢に下着を盗まれるなんて、いやだわ。矢沢さん、帰りたくても帰れないような状態になっているんじゃないかしら」 「それはどういう意味だ」 「たとえば、悪者《わるもの》に監禁されたとか、交通事故に遭《あ》って身動きできなくなったとか、最悪の場合は殺されたとか……」 「馬鹿な想像はやめろ。そんな事件があったら、報道されているだろう」 「だれにも知られず誘拐されて、監禁されていれば、報道されないわよ。車に轢《ひ》かれたり、殺されたりして、死体を山奥に埋められたか、海深く沈められてしまえば、報道されないわ」 「考えすぎだよ。そのうちにまた、なに食わぬ顔をして帰って来るさ」 「もしかして犯人は、日野さんじゃないかしら」 「なんだって?」 「矢沢さん、針金を張った犯人は日野さんかもしれないと言っていたのよ。矢沢さんは暴走族が死んだ夜、事件が起きる少し前に日野さん夫婦と階段の下でばったり鉢合わせしたんですって。もし日野さん夫婦が犯人で、矢沢さんが現場を見ていれば、矢沢さんが一言しゃべるだけで日野さんは暴走族の復讐《ふくしゆう》の的にされるわ。日野さん夫婦にとって矢沢さんの存在は脅威よ」 「脅威って……きみ……」 「日野さん夫婦は矢沢さんの口を恐れて、塞《ふさ》いでしまったのではないかしら」 「きみの妄想だよ」 「どうして妄想と言い切れるの。現に矢沢さんは消息を絶っているのよ」 「消息を絶っていることを確かめたわけじゃないだろう。ベランダに洗濯物を忘れ、郵便物を取り込まないだけだ。矢沢さんがどこへ行って、なにをしようと、我が家には関係ないことだ。忘れなさい」 「関係ないことはないわ。同じ屋根の下の数少ない入居者よ。私、絶対に日野さん夫婦が怪しいとおもうわ」 「他人にあらぬ疑いをかけて、まちがえましたではすまないよ」 「隣人が長期間姿を消しているのに、知らん顔をしている方が問題だわ。おもいきって警察に言ってみようかしら」 「やめろ。それこそまちがったではすまなくなる」  鶴川はやや大きな声を発した。 「日野さんの名前を出さなければいいでしょう。警察はきっと容疑者として日野さんを割り出すわ」 「同じ団地に住んでいるんだよ。こっちまで容疑者にされてしまう」 「べつにかまわないじゃない。後ろ暗いところはなにもないんだから」 「痛くもない腹を探られたくないよ。煩わしいことはご免だね」 「あなたって、冷たいのね」 「本当にきみはどうかしているよ。きみの隣人愛は隣人のプライバシーをほじくっているだけにすぎないんだよ」 「またプライバシーね。私たち、プライバシーの壁に隔てられて、隣人だけでなく、家族のスキンシップや信頼を失ってしまったわ」 「ぼくたちがいつ、家族のスキンシップや信頼を失ったんだね」 「これが家族と言えるの。同じ家に住んでいながら、ほとんど顔を合わせることもないわ。言葉を交わすことも少なく、同じ屋根の下に同居しているだけよ」 「きみ一人がそうおもっているだけだよ。きみは以前のプライバシーのまったくない、窓を開ければ隣りの家の壁しか目に入らないうさぎ小屋に戻りたいと言うのか」 「そうよ。うさぎ小屋の方がずっと人間的だったわ。家族の会話があって、隣り近所の人たちはみんな気心が知れていて、街には顔馴染《かおなじみ》の商店があって、毎日お祭りのようだったわ。ここは廃墟《はいきよ》よ。墓場と言った方がいいかもしれない。あなただって、ここに入居してから、私と話をしなくなったし、このごろは私の身体に指一本触れなくなったじゃないの」 「いつまで新婚みたいなことを言っているんだ」 「前のアパートにいたころから、まだ一年ちょっとしかたっていないのよ。あのころは私たち、まだ夫婦だったわ。いまは他人よりも遠いわ」 「ぼくは遠くなっているつもりはない。きみが遠ざかっているんじゃないか」 「お願い。ここを出ましょうよ」 「子供みたいに駄々をこねるんじゃないよ」 「あなたはわかっていないわ。最後に死ぬ寂しさと怖さを」 「最後に死ぬとは、どういう意味だ」 「話しても、どうせわかってもらえないわ。矢沢さんはきっと殺されちゃったのよ。殺されて、死体を人知れず人里離れた山の中か海に隠されちゃったのよ」 「勝手にしろ。きみの妄想癖にはつき合っていられない」  とうとう鶴川は奈美江を突き放した。     2  手鞠《てまり》の出所の確認は、捜査本部に刺激をあたえたが、幼女が用水路に突き落とされたかどうか確かめられない上に、幼女を突き落とした犯人が、現場を目撃した豊島を追跡して来て、殺したという想定には無理があるという意見が多かった。  だが、増成は自分のおもわくにこだわった。  幼女突き落とし犯人が、豊島を追いかけて来たとすれば、犯人は豊島の転居先を知っていたことになる。  犯人はどうやって豊島の新しい居所を知り得たのか。  最も手っ取り早い方法は、団地入居以前、同居していた次女に問い合わせることである。だが、次女は、そのような問い合わせは受けたことがないと答えた。  犯人が豊島の転居先を知る方法は、ほかにもある。本籍地の区役所、あるいは市町村役場の戸籍簿を閲覧すれば、戸籍の付票に住所の移転が記載されている。  また、住所を定めた区や市町村の住民基本台帳には、住所の移動が記載されている。  犯人がマークした特定の人物の名前と現住所を知ってさえいれば、公の資料から追跡することは可能である。  犯人が豊島を団地まで追って来たとすれば、犯人は豊島に犯行を目撃されたことを知っていたことになる。あるいは豊島が犯人に目撃した事実を告げたのかもしれない。  事実を告げて、恐喝したか、あるいは自首を勧めたか、不明であるが、犯人にとって豊島の存在は脅威となった。  もし犯人が幼女、あるいはレイプされたOLの線から来ているとすれば、入居者の目に触れているかもしれない。  増成は再度、入居者に訪ねてまわった。豊島が死んだ前後に、不審な者を見かけていないか。  だが、不審な者はあまりにも大勢いすぎた。ほぼ同時期に多数の暴走族と野次馬が団地に蝟集《いしゆう》していた。不審な者がいたとしても、彼らの中にまぎれ込んでしまっていた。  増成は再度、矢沢恵子と鶴川奈美江に会うことにした。矢沢恵子の方は寝たきりになった豊島の面倒を最後までみていた同じ棟の住人である。彼女らの目には、他の入居者とは異なる視野があるかもしれない。  だが、矢沢恵子は不在であった。  鶴川奈美江に面会を求めた増成は、彼女から前回とは異なる気配を感じ取った。  奈美江はなにかを知っていて、それを増成に話したものかどうかためらっている様子である。 「奥さん、どんなことでもけっこうです。気がついたことがあったらお話しいただけませんか」  敏感に彼女の気配を感じ取った増成は、追いすがった。 「私の独り合点かもしれませんけれど……」  言いかけて、彼女はまだ逡巡《しゆんじゆん》しているようである。 「どうぞお話しください。奥さんにご迷惑をかけるようなことはいたしません」  増成は促した。 「矢沢さんが蒸発してしまったのです」 「蒸発? 矢沢さんはお留守のようですが、蒸発とはどういうことですか」  鶴川奈美江の前に、矢沢に会いに行ったが、不在であった。だが、増成は不在を直ちに失踪《しつそう》に結びつけていない。 「矢沢さんの姿を見かけなくなってから、一ヵ月近くになります。ベランダに洗濯物を出したまま、そんなに長く留守にするものでしょうか」 「それで、奥さんは矢沢さんの蒸発の理由について、なにかお心当たりがあるのですか」  ありそうだと睨《にら》んだ増成は、つめ寄った。 「矢沢さん……もしかしたら、暴走族を殺した犯人を知っていたのではないでしょうか」  奈美江がおもいきったように打ち明けた。  彼女の推測は、増成を驚かせた。傍目八目《おかめはちもく》と言うが、奈美江の発想は、これまで増成にはなかった。いや、捜査本部にもない。  矢沢恵子が蒸発したという情報は、いまが初耳である。  奈美江の情報は、増成を内心驚かせていた。  豊島の死因はマスコミに公表されていない。  奈美江は矢沢恵子がワイヤー殺人の犯人を知っていたので消されたと推測しているが、矢沢の失踪にはもう一つべつの線が考えられる。  矢沢恵子は豊島の身の回りの世話をしていて、彼を殺した犯人を知っていたのかもしれない。豊島殺しの犯人から消された可能性もあるのではないか。  ともあれ矢沢恵子の失踪は、見過ごしにはできない。 「奥さん、大変参考になりましたよ。矢沢さんの行方は早速捜してみましょう」  増成は言った。 「私が言ったということは、くれぐれも伏せてくださいね」 「お約束します」  それでも奈美江は不安らしく、怯《おび》えた表情をしていた。犯人の報復を恐れているようである。  まずは奈美江の情報を測《はか》るためには、矢沢の在否を確認しなければならない。矢沢の失踪が確認されれば、事件に関わっていると言えるかもしれない。  矢沢恵子は入居時の職業はOLとなっているが、勤務先は不明である。  福島市出身であるが、身寄りの者とはほとんど没交渉になっているらしい。  緊急時の連絡先が不明なので、やむを得ず増成は団地の管理会社の立会の下に、矢沢恵子の一四〇三号室を覗《のぞ》いてみることにした。  もし本人が一ヵ月近く失踪していることが確かめられれば、犯罪の被害者になっている虞《おそれ》がある。  管理会社が保管している合鍵《あいかぎ》を用い、管理人の立会を要請して矢沢恵子の部屋に入った。  室内は小綺麗《こぎれい》に整頓《せいとん》されていたが、キチンの流しには汚れた食器が少し残されており、生ゴミも少々|溜《た》まっていて、異臭を放っている。  冷蔵庫の中には、買ったままほとんど消費されていない卵、牛肉、魚の切り身、ミルクのカートン、豆腐のパック、果物等がぎっしりとつめ込まれていた。  日付を見ると、三十日以上前である。おおむね鶴川奈美江の情報と符合している。  長期の旅行を計画している者が、その直前に大量の食料品を購入するはずがない。冷蔵庫の中身は、奈美江の推測を裏書きしていた。  増成は矢沢恵子の一時的不在が確かめられれば、直ちに退去するつもりであったが、冷蔵庫の内容から疑惑を促されて、屋内を本格的に捜索することにした。  ベランダに面した最も奥まった六畳の部屋にベッドが置かれ、枕許《まくらもと》に配された整理|箪笥《だんす》の中に、現金約三百万円、残高合計約三千万円の数通の預金通帳、および時価約五百万円相当の宝石、貴金属類、印鑑、保険証が収納されていた。  また、それぞれの預金先に見合うキャッシュカードもあった。  長期の旅行に出かける者が、現金やキャッシュカードや保険証を携帯しないことは考えられない。  室内には男の所持品や遺留品らしきものは認められない。  書棚には推理、SF小説や俳句雑誌が並べられている。  リビングに置かれたテーブルの引き出しから、約二百枚の名刺のファイルと、三分の二使用された女性用避妊具が発見された。  名刺の主はほとんどが男性で、中には有名な芸能人やスポーツ選手、また医者や会社の社長など、社会的地位のある者が混じっている。 「かなり発展していたようだな」  増成はつぶやいた。  部屋の主の失踪が確定すれば、これら名刺の主はすべて容疑者の列に並ぶ。  室内くまなく捜索したが、矢沢恵子の行方を示すような資料は発見されなかった。  だが、室内の状況から、その主はすぐに帰るつもりで出かけたとおもわれる。  日常の生活の痕跡《こんせき》を残したまま、所在不明をつづけていることは、なんらかの犯罪の被害者となっている公算が大きい。  矢沢恵子の失踪に、捜査本部は騒然となった。 「彼女の失踪が事件に関係があるとは言えない」  という消極的な意見もあったが、捜査本部の大勢は関連性ありと見ている。  捜査本部は、恵子がワイヤー殺人の犯人を知っていたかもしれないという鶴川奈美江の証言を重視した。  奈美江に再度事情が聴かれた。 「奥さんが、矢沢さんが犯人を知っていたかもしれないとおっしゃる根拠は、なんですか」 「なんとなくそんな気がしたのです」 「奥さんは、矢沢さんからなにか聞いているのではありませんか」 「いいえ、なにも聞いていません」 「だったら、どうして矢沢さんが犯人を知っていたかもしれないと言えるのですか」  当初は言を左右にしていた奈美江も、問いつめられて、言い逃れができなくなった。 「実は、矢沢さんから聞いたのです」 「矢沢さんは、どうして犯人を知っていたのですか」 「あの夜、矢沢さんは、事件が起きる少し前に帰宅して来て、階段の出入口で日野さんご夫婦に会ったそうです」 「ひのさん……」 「一三〇二号室の日野さんです」 「日野さんが、どうかしたのですか」 「そのとき日野さんは、手に針金のようなものを持っていたそうです」 「針金のようなもの……針金と確かめたわけではないのですか」 「暗かったので、はっきりと確かめられなかったそうですが、針金を巻いたもの、コイルと言うのですか、あれを持っていたそうです」 「すると、日野さんが犯人かもしれないと矢沢さんが言ったのですか」 「はい」 「あなたは、そのことをだれかに言いましたか」 「いいえ、矢沢さんから、だれにも言わないでくれと口止めされましたので」 「矢沢さんは奥さんだけに話したのですか」 「団地の中で、矢沢さんは年齢が比較的近い私にだけ、親しく口をきいてくれました。私も、ほかの入居者はほとんどお年寄りばかりなので、矢沢さんとだけ言葉を交わしていました」 「なるほど」  増成は鶴川奈美江の言葉を測った。  矢沢恵子本人から確かめたいが、所在が不明になっている。  仄聞《そくぶん》情報を鵜呑《うの》みにするのは危険である。だが、事件当夜、入居者が針金らしきものを持っていたという情報は聞き捨てにはできない。  増成はこの情報を本部に持ち帰って、検討することにした。  捜査会議でも、仄聞情報を危ぶむ声もあったが、矢沢恵子が所在不明をつづけている折から、ともかく日野夫婦に任意同行を求めて、事情を聴いてみようということに意見が一致した。  捜査本部に任意同行を求められた日野夫婦は、ショックを受けた模様である。 「私は警察から呼ばれるようなことはなにもしておりません」  日野は青い顔をして、抗議するように言った。 「捜査に必要な情報を集めております。ご協力をいただきたい」  任意ではあるが、増成の有無を言わせぬ口調に、日野は圧倒された。  任意同行であるから拒否できるが、拒否することによってどんな不利な状況を招くかもわからない。そんな雰囲気を日野夫婦は感じ取ったようである。  日野夫婦はH市署の捜査本部に連行された。一応、参考人としての任意取り調べであったが、捜査本部の雰囲気は厳しかった。  取り調べの焦点は、もっぱら犯行当夜の日野夫婦の行動に絞られた。  日野夫婦は犯行を頑強に否認したが、当夜の行動を明らかにできなかった。  鶴川奈美江の証言によると、矢沢恵子が当夜、日野夫婦を見かけたのは、事件発生直前の午前一時前後である。  その時間帯、どこで、なにをしていたかという質問に、日野夫婦は答えられなかった。ただ、自分たちはしていないの一点張りである。  警察としては、アリバイを証明できない限り、当夜の犯行は日野夫婦によるものと断定せざるを得ないと、増成に恫喝《どうかつ》されて、日野は意外なことを供述し始めた。 「ワイヤーを張ったのは私たちではありません。当夜、午前一時ごろ帰宅して来ると、鶴川さんのご子息の弟さんが、階段から下りて来るのを見ました。そのときの弟さんの挙動に不審をおぼえたので、階段を上る振りをして後を尾《つ》けると、第一棟の側道を挟む街路樹にワイヤーを張り渡しているのを見ました。  そのときは、なんのためにそんなことをするのかわかりませんでしたが、間もなく、暴走族がワイヤーにはね飛ばされて死傷したのを見て、彼の意図がわかりました。  暴走族には私たちも悩まされ、憎んでいましたので、弟さんのしたことは黙っていました。できれば、ずっと私たちの胸の中にたたんでおきたかったのですが、私たちが犯人と疑われてしまったので、正直に申し上げます。ワイヤーを張ったのは私たちではありません」  と日野夫婦は供述した。 「それでは、あなたたちが帰宅して来たとき、持っていたというワイヤーはなんのためだったんだね」  増成は問いただした。 「拾ったものです」 「拾った……?」 「私はこちらに入居する前は、ある家具会社に勤めていましたが、入居後、通勤に不便なので会社を辞めてしまいました。退社後、次の職場がなかなか見つからないまま、ある日、団地のゴミ集積場に粗大ゴミとして出されていた、充分使える洗濯機や冷蔵庫からヒントを得て、県内、都下、都内、近隣県のゴミ集積場をまわり歩いて、使えるものを拾い、これを再生して売っていました。再生品の需要は多くて、再生が注文に追いつかないくらいでした。  おかげで、サラリーマン現役時代よりは収入がアップしましたが、ゴミを拾い集めるのがなんとなく恥ずかしくて、夜間出歩いていたために、ご近所から誤解されたようです」  日野夫婦の申し立て通り、日野家の中から大量の粗大ゴミ、および再生品が発見された。  日野夫婦の供述の信憑《しんぴよう》性はにわかに増した。  瓢箪《ひようたん》から駒と言うが、捜査本部は意外な犯人に驚愕《きようがく》した。  鶴川正明は、本年十四歳の中学三年である。  容疑者が少年なので、捜査本部は慎重な構えを取った。とりあえず任意取り調べによって、事情を聴くことにした。     3  正明は悪びれずに犯行を自供した。 「毎晩のように暴走族が暴れまわって、受験勉強が手につかなかった。なんとかして、あいつらをぺしゃんこにしてやりたいとおもっていた。でも、対マン(一対一)でも敵《かな》いそうにない凶暴な相手が百人以上も群れ集まっていては、どうしようもないとあきらめていた。野次馬たちも、暴走族の味方だった。うるさい上に、悔しくて眠れない夜がつづいた。  ある晩、ビデオで映画を見ていると、暴走族に乗っ取られた地域の住民が、自衛のために立ち上がり、暴走族と戦うというストーリーだった。その中で、暴走族の進路コースに針金を張り渡して、暴走族をやっつける場面があった。その映画からヒントを得た。映画のようにうまくいくとはおもっていなかったが、予想以上の効果を上げて、暴走族が死んだので、仰天した。殺すつもりはなかった。せいぜい怪我でもすれば、スカッとするとおもってやった」  鶴川正明の自供によって、暴走族ワイヤー殺人事件は解明された。  犯人は十四歳の少年でもあり、殺人の故意はなかったので、事件は家庭裁判所にまわされ、その審判に付されることになった。  事件は解決したが、H市署の捜査本部はべつの危惧《きぐ》を抱いていた。  犯人が自供したので、暴走族の報復を引き出さないかという虞《おそれ》である。  犯人の身柄は家庭裁判所の管理下に置かれているが、暴走族の報復の鉾先《ほこさき》が犯人の家族に向けられないという保証はない。  当夜、集合していた暴走族は、その黄金期のように、特定のグループを結成していないが、かつてのグループの残党が寄り集まっている。  グループは解散されたが、グループ時代の凶暴性は少しも衰えていない。その事実を、事件発生直後の無差別攻撃で実証している。  もし暴走族が鶴川家の家族を狙ってきたら、警察では保護しきれない。捜査本部は当分の間、鶴川家を中心に、団地を重点|警邏《けいら》することにした。  暴走族ワイヤー殺傷事件は解決したが、豊島勝治の死、および矢沢恵子の失踪は依然として未解決であった。  鶴川正明も暴走族ワイヤー殺傷事件については素直に自供したが、豊島と矢沢についてはまったく知らないと答えた。  矢沢恵子は暴走族ワイヤー殺傷事件の犯人が犯行を目撃されて、彼女の口を塞《ふさ》いだと推測されたが、恵子が目撃したのは犯行そのものではなく、犯行時間帯に犯行現場近くですれちがった日野夫婦に疑いをかけていたのである。  彼女がその疑いを洩《も》らした相手は、皮肉にも犯人の母親であったが、恵子が犯人について嘘をつかなければならない理由はない。  また鶴川正明がワイヤー殺傷事件の自供をしながら、その関連余罪を黙秘しているようにはおもえない。  豊島勝治の死と矢沢恵子の失踪は本件とは無関係との見方が強くなった。  彼女の名刺ファイルから推測して、男性関係はかなり発展していた模様である。ワイヤー殺人とはべつの理由で失踪したとしても、不思議はない。  H市署の捜査本部としては、本件は解決したものの、関連事件として捜査を進めていた豊島勝治の事件と矢沢恵子失踪事件が依然として解明されないので、釈然としなかった。  捜査本部は暴走族殺傷事件の裏づけ捜査をつづけながら、豊島の事件と矢沢失踪事件の捜査本部に移行した観があった。  増成は豊島勝治の部屋に残されていた手鞠《てまり》にこだわっていた。あの手鞠にはなんらかの意味があるはずである。  手鞠の前所有者は用水路に転落して死んだ。そして、転落推測地点は豊島の散歩コース上にあった。  一方、彼の月見場所付近で轢《ひ》き逃げ事件が発生している。これは豊島の死と無関係ではないような気がする。  また矢沢恵子の失踪も、豊島の死に関わっているのではないのか。  だが、増成の意見は捜査本部の大勢を傾けるだけの説得力に欠けていた。  鶴川正明の自供によって本部の潮流が変わっている。  要するに、すべて増成の推測にすぎず、彼の意見を裏づける具体的な資料はなにもない。  手鞠の前所有者がたまたま用水路に転落し、豊島の月見の定場所の近くで轢き逃げ事件が発生したところで、偶然の一致にすぎないというわけである。 [#改ページ]  勇気ある行動     1  玉川署の永井は、手鞠の行方をH市署の増成からおしえられて、その新しい所有者の死因は、幼女の死と関わりがあるにちがいないと睨《にら》んだ。  幼女が転落したと推測される地点は、手鞠が保管されていた豊島勝治の散歩コースと重なり合う地点に限定された。  永井はその地点にかかる用水路を丹念に調べた。  用水路は幅六十センチ、深さ約五十センチ、冬の渇水期を除いて、かなりの水量が流れている。  用水路は側壁と底をコンクリートで固められ、上部はおおむねコンクリートブロックの蓋《ふた》で塞がれている。  ところどころに蓋がまばらになって、流水が露出している。  永井は用水路を覆っている蓋を一枚一枚、持ち上げて調べた。  丹念に蓋を観察していた永井は、一枚の蓋に目を留めた。蓋は用水路側壁の切欠《きりかき》に引っかかって固定されるようになっているが、その蓋は切欠にかかる部分が破損していて、不安定になっている。つまり、浮き石のような状態になっている。上から一見しただけではわからない。  さらに蓋の破損部分に目を近づけた永井は、そこが自然の風化によるのではなく、人工的な力を加えての破損であるのを認めた。  永井は幼女の死が、事故や過失ではなく、仕組まれた殺人である可能性を悟った。  何者かが蓋を道具で破壊している。なぜ、そんなことをしたのか。永井の胸の内に禍々《まがまが》しい想像が容積を増してきた。  何者かが幼女に殺意を抱き、蓋の上に乗れば体重で蓋が外れて、用水路に転落するように工作を施し、幼女を誘い込んだ。  幼女が落ちた後、蓋を元通りにしておけば、蓋の間隙《かんげき》から落ちたとおもわれる。完全犯罪の成立である。  犯人が四歳の幼女を殺した動機はなにか。幼女を殺して、どんな利益があったのか。あるいは犯人にとって、幼女に生きていられては都合の悪い事情があったのか。  利益としてとりあえず考えられるのは、相続問題である。だが、幼女は実親《じつおや》から引き離されて、養家の養女に来た。養親には子供がないので、幼女を養女にしたのである。  幼女と財産を分け合うべききょうだいはいない。また養親はそれほどの財産家ではない。  永井は相続問題を消去した。  そうなると、四歳の幼女の殺人動機が見当たらない。  友達がいたずらに幼女を突き落としたにしては、手口が巧妙であり、計画的である。  だが、子供の仮面を被《かぶ》った悪魔がいるかもしれない。  永井は再度、幼女の養親に会った。 「お嬢さんの生前の友達を、すべておしえていただけませんか」 「あの子にはほとんど友達はいませんでした」 「しかし、お嬢さんが行方不明になったとき、一緒に遊んでいた友達に尋ねたら、午後三時に帰宅したということでしたが」 「はい、その子はあの子のたった一人の友達でした。中学生で、学校から帰って来ると、いつもあの子の相手をしてくれていました」 「ほう、中学生の友達ですか」 「その子も一人ぼっちだったらしく、まるで実の兄のように、あの子に優しくしてくれました。あの子が死んだとき、一番悲しんでいたのは、その中学生でした」 「その中学生の名前と住所をおしえていただけませんか」 「鶴川正明という子です。いまはH市の方に移転しておりますが」 「なに、H市ですって……」  永井はおもわず高い声を発した。  H市署の増成から、幼女の手鞠について問い合わせを受けたばかりである。 「もしかして、移転先はH市の団地ではありませんか」 「そのように聞いております」  永井はルートがつながったとおもった。幼女の友達の行方をもっと早く追っていれば、増成と連絡がついていたはずである。  だが、増成が来るまでは、手鞠の行方に関心を持っていただけで、幼女の死因に犯罪性を疑っていなかった。  手鞠の保管者が曖昧《あいまい》な死に方をしたと増成から知らされて、初めて不審を抱くようになったのである。  手鞠を保管していた豊島勝治と同じ団地に、幼女のただ一人の友達が移転した事実は、見過ごしにはできない。  豊島の曖昧な死因に、幼女の友達が関わっているかもしれない。  豊島は散歩先で、幼女が用水路に転落した、あるいは蓋に工作している場面を目撃した。幼女用水路転落工作犯人は、目撃者を追いかけて行って、その口を塞《ふさ》いだのかもしれない。     2  玉川署の永井から連絡を受けた増成は、愕然《がくぜん》として唇を噛《か》んだ。迂闊《うかつ》であった。  鶴川正明、および鶴川家の前住所は意識の外にあった。それを早く調べていれば、容易に幼女と豊島勝治は結びついていた。  まさか豊島と幼女と鶴川正明の三人が、前住所で関わり合っていたという発想はまったくなかった。  永井の推測が的を射ていれば、鶴川正明は豊島を殺す動機も持っている。  だが、正明は豊島の死については全面的に否認している。その時点では、彼の否認を一応受け入れたが、豊島殺しを認めることは、幼女転落工作の余罪を引き出される虞《おそれ》があったのである。  増成は恐ろしい子供だとおもった。一見、おとなしそうで、虫も殺さぬような顔をしていながら、暴走族を殺傷し、幼女を用水路に突き落とし(工作し)、その場面を目撃された老人を殺した……。  身柄を家裁に送られていた正明に、再度事情が聴かれた。  事情聴取には玉川署から永井も来た。 「きみは千鳥《ちどり》ちゃんを知っているね」  まず、永井が幼女の名前を挙げて問うた。正明の表情が硬直した。 「どうだね。知っているんだろう」  正明の顔色から、永井はしっかりした手応《てごた》えをおぼえた。  正明は口を結んだまま答えない。その前に、増成が幼女の手鞠《てまり》を差し出した。 「この手鞠をおぼえているね」  手鞠に目を向けた正明の唇が、ひくひくと震えた。 「千鳥ちゃんはいつもこの手鞠を持って遊んでいた。その千鳥ちゃんが用水路に落ちて死んだ。きみは千鳥ちゃんが死ぬ前に、最後に千鳥ちゃんと遊んでいたね」  正明は唇の震えが伝染したかのように、全身小刻みに震え始めた。 「千鳥ちゃんがきみと別れてから、千鳥ちゃんは行方不明となり、翌日、用水路の下流から死体となって発見された。千鳥ちゃんと最後に別れたとき、なにがあったのか、話してくれないかな」  永井は穏やかに追及した。 「ぼくは、ぼくは……」  正明は震えながら供述を始めたとおもうと、わっと泣き出した。永井と増成は正明の泣くままに任せた。  正明はひとしきり泣いた後、泣きじゃくりながら話し始めた。 「千鳥ちゃんがあまりに可愛かった。学校でいじめに遭《あ》っていて、千鳥ちゃんと遊んでいるときだけが、ほっとした。千鳥ちゃんはぼくの言うことならなんでも聞いてくれた。学校でぼくは、ゴミのように無視《シカト》されていた。千鳥ちゃんだけがぼくのただ一人の友達だった。千鳥ちゃんは、ぼくが死ねと言えば死ぬかもしれないとおもった。千鳥ちゃんは、大きくなったらぼくのお嫁さんになると言っていた。  そのうちにぼくの家が引っ越すことになった。学校を移るのは嬉《うれ》しかったけれど、千鳥ちゃんと離れたくなかった。ぼくが引っ越してしまえば、千鳥ちゃんはまた一人になってしまう。ぼくが引っ越すことを話すと、千鳥ちゃんは大粒の涙をぽろぽろとこぼして、『お兄ちゃんは私一人を置き去りにして行ってしまうの』と言った。ぼくは千鳥ちゃんを一人残して行くのが可哀想でならなかった。  ぼくが引っ越した後、独りぼっちで手鞠をついている千鳥ちゃんの姿を想像すると、たまらなくなった。ぼくは用水路の蓋を、お父さんの日曜大工の道具を使って、上に乗ると外れるように工作して、あの日夕方、千鳥ちゃんをその蓋の上に乗るように誘い出した。千鳥ちゃんはぼくの言う通りに蓋の上に乗って、用水路に落ちた。落ちた弾みに『お兄ちゃん』と叫んで、手鞠を手から落とした。ぼくは怖くなって、その場から逃げて帰った。  次の日の朝早く、その場所へ行ってみたら、手鞠はだれかに拾われたらしく、なくなっていた。蓋を元通りに直して、学校へ行き、家に帰って来ると、千鳥ちゃんが死んだと近所の人たちが話し合っていた。ぼくは押入れの中に入って、一人で泣いた。千鳥ちゃんを殺そうなんておもわなかった。千鳥ちゃんを置き去りにしたくなかっただけだ。いまでも千鳥ちゃんの夢を見る」  正明は話し終わって、またひとしきり泣きじゃくった。 「きみの前の家の近所に住んでいた豊島勝治さんが、千鳥ちゃんが用水路に落ちるところを見ていたんだね」  今度は増成が質問した。 「知りません。もう夕方で、辺りが暗くなっていて、だれもいなかったとおもう」  正明は首を横に振った。 「豊島さんが千鳥ちゃんの手鞠を拾って、持っていたんだよ。豊島さんはその辺りをよく散歩していた。散歩の途中、千鳥ちゃんが用水路に落ちるところを見ていて、手鞠を拾ったんじゃないのかね」 「そのときは辺りにだれもいなかった」  素直に供述していた正明が、頑《かたくな》に首を横に振った。 「きみは豊島さんを知っていたんだろう」 「団地に引っ越して行ったとき、以前、どこかで見かけたようなお爺《じい》ちゃんがいるとおもった。けれど、いつ、どこで会ったのかおもいだせなかった」 「団地で豊島さんに再会したとき、豊島さんはきみになにか言わなかったかね」 「なにも言いませんでした。豊島さんはぼくの顔を忘れていたようだった」 「豊島さんは千鳥ちゃんが用水路に落ちたところを見たとは言わなかったかね」 「ぼくたち、一度も口をきいたことはありませんでした」     3  増成と永井はその場で、正明をそれ以上追及することは避けた。相手は十四歳の少年である。彼はすでに暴走族ワイヤー殺傷、および幼女用水路転落工作を認めている。  十四歳の少年にとって、重すぎる供述であり、あまりにも重大な罪質である。  刑事たちは、その上にもう一つの罪を一気に背負わせることが酷におもえた。  彼は、もしかすると矢沢恵子の蒸発にも関わっているかもしれない。少年を一挙に追いつめて、罪の重さで押しつぶすようなことがあってはならない。  正明の自供によって、幼女用水路転落事件の意外な真相が判明した。 「しかし、ワイヤー殺人と幼女転落工作を自供した後、なぜ、豊島勝治についてのみ否認するんでしょうな」  永井が事情聴取の帰途、首をかしげた。 「私もその点を不審におもいました。彼はワイヤー殺傷事件を自供した後、豊島勝治の事件についてはなにも知らないと言っていました。そのときの態度は極めて自然でした。演技ができるような年齢ではないし、幼女転落工作について聴かれたとき、顕著な反応を示して、素直に犯行を自供しました。暴走族ワイヤー殺傷事件について聴かれたときも、とても素直でした。豊島勝治に関してのみ演技をしたり、嘘をついたりできるとはおもえませんね」  増成が言った。 「豊島勝治は別件でしょうか」 「私は別件だとおもいます。たしかに鶴川正明の罪質は重大ですが、罪の本質はそれほど悪性ではありません。暴走族殺傷は団地全体の怒りを代行したわけですし、幼女転落工作の動機は、彼女を置き去りにしたくなかったからです。その彼が寝たきり老人の口を塞ぐために窒息させたとは考えにくい。豊島勝治殺しの犯人像としては無理があるような気がします。  彼は月見神社付近で轢《ひ》き逃げを目撃した可能性もあります。犯人はその線から口止めに来たのかもしれません」 「ふと、いま考えついたことですが、矢沢恵子の失踪《しつそう》も、月見神社の轢き逃げと関わりがあるのではないでしょうか」 「矢沢恵子と轢き逃げが……」  増成が盲点を衝かれたような表情になった。これまでおもってもみなかった着想である。  恵子の蒸発は暴走族ワイヤー殺傷事件、あるいは豊島勝治に関わっていると推測されていたが、第一の事件への関わりは否定された。残るは豊島との関わりだけになったが、豊島の前住所で発生した事件にまでさかのぼるとは考えなかった。  だが、鶴川正明は前住所の事件に関わっていた。そのことから発した連想である。  矢沢恵子が豊島勝治の以前の生活圏に関わっていなかったという保証はない。 「そうだ。矢沢恵子が轢き逃げ犯人であったという可能性も考えられますね」  増成は新たな視野が開いたようにおもった。 「矢沢恵子が轢き逃げをした現場を、豊島勝治が目撃したとすれば、彼は矢沢の弱味をつかんだことになります」  矢沢が豊島を介護する振りをして、彼の口を塞ぐ機会を狙っていたとも考えられる。だが、それでは彼女の失踪が説明つかなくなる。 「矢沢を轢き逃げ犯人と仮定して、彼女の車に同乗者がいたとしたらどうでしょうか。いや、矢沢恵子が犯人の車に同乗していたのかもしれない。もしそうだとすると、轢き逃げ犯人にとって、豊島と矢沢は脅威になります」  増成は新たな可能性を示唆した。 「なるほど。豊島が殺されれば、矢沢はその犯人について、すぐおもい当たりますね」 「矢沢自身が犯人である場合もありますよ。轢き逃げ犯人から指示されて、矢沢が豊島を殺す。轢き逃げ犯人にとっては、矢沢の存在は二重の脅威になるわけです」  二人は新たに導き出された推論を見つめた。  早速矢沢の運転免許取得の有無が調べられた。矢沢は免許を取っていなかった。矢沢の轢き逃げ犯人説は打ち消された。だが、犯人の車に同乗していた可能性は残されている。     4  鶴川奈美江は驚愕《きようがく》のあまり茫然《ぼうぜん》とした。矢沢恵子から伝え聞いた日野夫婦に対する疑いを刑事に話したところ、なんと暴走族ワイヤー殺傷事件の犯人は、自分の息子であった。  まさに泥棒を捕らえてみれば我が子なりを、地でいった感じである。  だが、奈美江の驚愕はそれだけに終わらなかった。さらに正明が恐るべき余罪を自供した。  奈美江も正明が可愛がっていた幼女を知っていた。どこか寂しげな陰翳《いんえい》のある色白の可愛い幼女であった。  用水路に誤って転落して死んだとばかりおもっていたが、実は正明が突き落とし(工作し)たという。 「あなた、これはきっとなにかのまちがいだわ。正明がそんな恐ろしいことをするはずがないわ」  奈美江は夫に訴えた。 「正明は自分がやったと警察に自供したそうだよ」  鶴川も衝撃から立ち直れないでいる。 「正明は警察から拷問されて、身におぼえのないことを白状したのよ。弁護士を雇って、正明を助けてやってちょうだい」 「もちろんベストを尽くすよ」  奇妙な現象が夫婦の間に生じつつあった。  団地に入居してから夫婦の間に深まっていた溝を、正明の問題が一時的に埋めた。  いまは子供を救うために、夫婦が協力しなければならないときである。  団地の入居者の間にも、面白い現象が生じていた。  通常であれば、隣人に殺人犯の一家が住んでいれば、薄気味悪がり、敬遠するはずである。ところが、入居者たちは明らかに鶴川一家に好意的な視線を向けている。  ある住人は、はっきりと、 「私がしたいとおもっていたことを、お宅のご子息がやってくれた。ご子息に感謝したい」  と言った。  団地共通の迷惑であり脅威であった暴走族に、痛烈な一矢を報いた正明は、入居者のヒーローに祭り上げられていたのである。  幼女転落工作事件については、入居者たちはほとんど知らない。仮に知ったとしても、彼らの生活にはまったく関わりない鶴川家の以前の住所で発生した事件である。  事の是非は保留して、これまで姥捨山《うばすてやま》に捨てられてばらばらであった入居者たちの間に、正明の暴走族に対する反撃をきっかけにして、連帯する気運が生じてきた。  これまで話題にもならなかった自治会を結成しようという話まで持ち上がってきた。  陸の孤島として世間から切り捨てられ、入居者相互の交際もなく、空中分解寸前であった団地が、正明の「勇気ある行動」をきっかけにして、立ち上がろうとしていた。  まさに禍《わざわい》を転じて福と為した観があった。 [#改ページ]  集団の殺意     1  この時期、暴走族の間で一つの動きが生じていた。  報道によって、団地住人の少年が犯人と知った暴走族は、いきり立った。 「このまま黙っていたら、族の面目が丸潰《まるつぶ》れだ。やつを叩《たた》きのめさなければ、死んだ仲間が浮かばれねえよ」 「そんなことを言っても、犯人は警察に捕まっているぜ」 「一族連帯責任だよ。犯人の家族を叩いてもいいんじゃねえのか」  事件後、暴走族は集会を開いて討議した。  グループは解散したが、以前のグループの残党が勢力を残している。彼らはこの事件をきっかけにして、族の連帯意識をよみがえらせ、昔のグループを再結成しようと企んでいた。  新道路交通法によって走りを奪われた彼らは、なにかの形で存在を主張しなければならない。  団地サーキットは恰好《かつこう》の自己主張の場であったが、たった一人の少年によって撃退されたとあっては、族全体の面目に関わる。  解散させられた族であったが、残党のアピールは族全体の共感を呼んだ。  死んだ暴走族の葬儀には、団地サーキットに参加しなかった族までが集まって来た。彼らは死んだ仲間に焼香しながら、改めて復讐《ふくしゆう》を誓った。  族の逆恨みの鉾先《ほこさき》は、増成が危惧《きぐ》していた通りの方角に向かってきたのである。  暴走族の間で綿密な計画が練られた。今度は無差別な報復ではなく、ターゲットは定まっているが、報復の方法で議論が分かれた。犯人の名前は伏せられていたが、団地内ではみなが知っている。  犯人の家族は両親と兄がいる。リーダーは母親に照準を据えた。母親に加える報復が、犯人の少年にとって最もダメージが大きいと判断したからである。  なんの責任もない母親に対する報復が、的はずれであることには気がつかない。  もともと逆恨みの報復である。他人《ひと》に迷惑をかけることなく存在し得ない族の面目とは、その程度のものであった。 「殺すなよ。犯人の母親を誘拐して、輪姦《マワ》してしまえ」  リーダーが指示した。 「凄《すげ》え婆あだぜ」 「おまえらのお袋よりも若くて美《マブ》しいぜ」 「兄貴のお袋さんと比べて、どうだい」 「馬鹿野郎。彼女もいねえくせに、贅沢《ぜいたく》を言うな。熟れた年増のこってりとした味もいいもんだ」  事件後、警察は団地を重点|警邏《けいら》地区としていたが、警官が四六時中張りついているわけではない。     2  春枝《はるえ》は久し振りに姉を訪ねて来た。夫の転勤に従って北海道に移ってから、姉に会っていない。  姉一家は都下の新しい団地に転居したという通知を受け取っていた。その後、日々の忙しさにかまけて没交渉になっている。姉一家の転居先を訪問するのは初めてである。  都内の高校を卒業した春枝は、高校同窓会の通知を受けて、たまたま期日が夫の出張と一致したので、夫にせがんで久し振りに上京して来たのである。  同窓会の後、姉の新しい家を訪ねてみようという気になった。新住所は、都下H市の団地である。  ところが、H市の駅に降りると、団地までバスは出ていないという。バスの通わない団地とは、一体どんなところかと、春枝は不思議におもった。  春枝は、まずその辺鄙《へんぴ》な立地環境に驚いた。どんなに辺鄙でも都下である。北海道に比べれば、よほど地の利がよいはずだとおもって来たのが、駅前のタクシーに行き先を告げると、 「あそこは道路が悪くて、車が汚れる、運転は疲れる、帰りの客も拾えねえからなあ」  と露骨にいやな顔をされた。  運転手が言ったように、車は間もなく未舗装の山道に入った。丘陵性の低山が波のようにたたなわる奥へ入るほどに、人家は疎《まば》らになった。  しかし、まがりなりにも団地と名がついているのであるから、その区域は賑《にぎ》やかに開けているであろうとおもった。  間もなく視野から人家は一軒も見えなくなった。車は未舗装の道を朦々《もうもう》たる土埃《つちぼこり》を巻き上げながら走った。  春枝は、これでは運転手がぼやくのも無理はないとおもった。  運転手は背中越しに、団地は当初の計画通りに入居者が集まらないので、二十棟の建設計画を三棟で打ち切り、入る予定のバスも、スーパーも診療所も郵便局も商店も学校も幼稚園も取りやめになったと語った。 「姉さん、大変なところに住んでいるのね」  春枝は姉に同情した。これでは文化果つるところではないか。  東京から北海道へ転勤して行ったとき、ずいぶん遠いところへ飛ばされたとおもったものだが、飛行機で一飛び、空港からのアクセスもよく、都下のこんな辺鄙な山中よりもずっと便利である。  いまどきスーパーやコンビニもなく、バスの入らない団地など考えられない。これでは文明から置き去りにされた陸の孤島ではないか。  ようやく団地に着いた春枝は、ますますその感を深くした。  団地の構内に住人の影もなく、四階建て三棟の建物は無住のように森閑と静まり返っている。まったく人間の気配というものが感じられない。  建設されて二年も経たないはずの建物の壁にも雨水が縞《しま》を描き、窓ガラスは破損したまま放置され、ベランダの手すりは錆《さ》びついている。火事でも出したのか、屋内が黒く焦げた廃墟《はいきよ》のような区画もある。春枝には、団地全体が廃墟のように見えた。  姉の家がどこにあるのか、訪ねたくとも人が見当たらない。  それでもゴミ集積場にわずかながらゴミが出されているところを見ると、入居者がいないわけではないようである。  春枝が姉の住所を書いたメモを手にして、団地構内をうろうろしていると、突然、音もなく一台の乗用車が彼女のかたわらに滑り寄って来た。  車内には三人の若い男が乗っていた。運転席の男は茶髪にサングラスをかけ、後部座席にはムースで髪をハリネズミのように逆立てた男と、モヒカン刈りというのか、頭頂部だけ残して両側頭部を刈り込み、首に銀のネックチェーンをかけた男がいる。なにやら怪しげな気配を放散している若者たちであった。 「鶴川奈美江さんですか」  ハンドルを握っていた男が、窓越しに問いかけてきた。  突然、姉の名前を出された春枝は、咄嗟《とつさ》に、はあとうなずくと、ハリネズミとモヒカン刈りが素早い身のこなしで、後部座席から降り立つと、春枝を両側から挟み込んだ。 「なにをするの」  抗議したのをまったく無視して、ハリネズミが春枝を車内へ引きずり込んだ。春枝の手からハンドバッグと旅行|鞄《かばん》が落ちた。同時に車は発進していた。 「やめて、なにをするの」  必死にもがく春枝を、ハリネズミとモヒカン刈りが両側からぴたりと押さえ込んだ。 「ぎゃあぎゃあわめくんじゃねえ。おとなしくしていれば、痛い目には遭《あ》わせねえよ」 「痛い目どころか、いい目をみさせてやるぜ」 「オバンだとおもっていたが、けっこうイカスんじゃねえの」  三人は言って、喉《のど》の奥で含み笑いをした。  車は加速して、団地構内から走り出ようとした。救いを求めても、もともと無人のような団地である。  春枝はこの異体の若者たちが、自分を姉と勘ちがいしているのを悟った。 「私は鶴川奈美江ではないわよ。妹の春枝よ」  春枝は訴えたが、 「うるせえ」  と一喝された。  助かりたい一心で嘘をついたとおもわれたらしい。  彼らがなんの理由で、どんな目的のために彼女を拉致《らち》しようとしているのかわからないだけに、不気味である。  突然、轟音《ごうおん》と共に車体に衝撃が伝わった。 「なんだ、どうしたんだ」  三人は同時に口走ったが、咄嗟になにが起きたのかわからない。車は急停止した。  つづいてゴーンと衝撃が走った。彼らはようやく頭上から、椅子やテーブルやその他の家具が落下してくるのを悟った。  落ちてきたテーブルが車の進路を塞《ふさ》いだ。驚いて頭上を見上げると、ベランダに入居者らしい老人が立って、手当たり次第に家具を投げ落としている。それらは見事なまでに車に命中した。 「こら、なにをしやがる」  若者が窓から身を乗り出して怒鳴ったところへ、風を切ってリンゴ箱が落ちてきた。 「女性を解放しろ」  ベランダの入居者が怒鳴り返した。  車は家具の爆撃の間を縫って、団地の構外へ逃れ出ようとした。  だが異常な気配に、ベランダに出て来た他の入居者たちが見倣《みなら》って、手当たり次第に雑品を投げ落とし始めた。  ブロンズの花瓶の直撃を受けて、フロントガラスが砕け散った。次々に家具の爆撃を受けて、車は動けなくなった。 「兄貴、ヤバいぜ」 「死に損ないの老いぼれが、ふざけやがって」  三人は歯噛《はが》みをしたが、入居者が結束しての爆撃の前に、歯が立たない。  間もなくパトカーのサイレンが近づいて来た。  団地の入居者の通報を受けて、駆けつけて来たパトカーによって三人は逮捕され、春枝は救出された。  H市署へ連行された彼らは、暴走族の残党で、先日殺傷された仲間の報復に、犯人の少年の母親の誘拐を企《たくら》んだと自供した。  母親と妹をまちがえて拉致しようとした現場を、たまたま目撃した入居者が、車に家具を投げ落として、危機一髪で救ったのである。姥捨山《うばすてやま》の住人の意外な結束とパワーであった。  暴走族を撃退した入居者たちの意気は大いに揚がった。これまで姥捨山の住人として、生きている死骸《しがい》のような暮らしをしていた老人たちが、凶暴な暴走族を撃退して自信を取り戻したかのようである。 「暴走族、来るなら来てみい。今度は生きては、この団地から出さんぞ」  と老人たちは息巻いた。  彼らにとって暴走族を阻止したことは、一種の敗者復活戦であった。  人生の敗者として姥捨山に捨てられた彼らが、暴走族との戦いをきっかけにして立ち上がろうとしていた。  だが、鶴川奈美江は暴走族が逆恨みの鉾先を自分に向けようとしたことを知って、震え上がった。  暴走族がふたたび襲ってこないという保証はない。 「私、もうこれ以上、ここにいられないわ。あなたが行かなければ、私一人でも出て行くわよ」  奈美江は鶴川に宣言した。  鶴川も、これ以上、妻を引き止められないと判断した。団地にいては、彼女の安全を保障できない。 「早急に新しい住処《すみか》を見つけよう」  ようやく鶴川も同意した。この際、次男のことで傷心の妻の身の安全が最優先されなければならない。  だが、その矢先にまた大事件が発生した。  どこから流れて来たのか、四十代後半から五十前後と見える男のホームレスが、団地の構内に迷い込んで来た。  前回のホームレスによる失火事件があったので、入居者はそのホームレスに警戒の視線を集めた。  わりあいこざっぱりした服装をしていて、生活用具一式をつめ込んだ旅行鞄を提げたその男は、一見したところホームレスのようには見えない。  露出している手首や首筋が陽に焼け、垢《あか》じみて異常に黒いのが、一般人との識別マークになった。  入居者が構内から出て行くように注意しても、図々しいのか鈍いのか、にたにた笑うだけで、公園の一隅にあるバケツや箒《ほうき》や草刈り鎌などが収納されている雑品倉庫に住み着いてしまった。  自治会でも彼の存在が問題になった。 「みんな薄気味悪がって、公園に行かなくなったよ」 「そのうちに、また空いている区分に入り込んで、焚き火でもされたらことだよ」 「どこかで悪いことをして、ほとぼりが冷めるまで、団地を隠れ家にしているんじゃないのかね」 「前科者か脱獄者じゃないかしら」 「警察や管理会社に言っても埒《らち》が明かない」 「だったら、我々が追い出す以外にないね」 「いくら言っても出て行かないよ」 「出て行かなければ、実力で排除してしまえ」  入居者たちは話し合っている間に、過激になってきた。     3  数日後早朝、団地内の公園で死体となって横たわっていたホームレスを発見した入居者の一人が、一一〇番通報してきた。  H市署から捜査員が臨場して調べたところ、死体には全身に鈍器による打撲傷が認められた。鈍器の種類も数種あるようである。  死体は、寄ってたかって袋叩《ふくろだた》きにされたといった状態を呈していた。  解剖によって、死因は脳挫傷《のうざしよう》と鑑定された。  被害者は半月ほど前から、団地に流れ込んで来た身許《みもと》不明のホームレスである。H市署では、数ヵ月前に、同じ団地内で発生したホームレスの焚き火による失火事件を想起した。  あの事件以来、団地の住人は、ホームレスに神経過敏になっていた。  警察は被害者の創傷の状態から、団地の住人の犯行と推測した。それも一人や二人の仕業ではない。入居者が多数集まり、被害者を袋叩きにした状況である。  だが、住人相互が庇《かば》い合っていて、証拠がつかめない。  H市署の増成は、ホームレス、暴走族と相次いで侵入された団地の住人が、結束して暴走族を撃退してからとみに過激になった気配に、不安をおぼえていた。  いつかこのような不祥事が起きるのではないかと危惧していたが、それが的中した形となった。  被害者は団地に対してなんの実害を加えたわけではない。しいて言うならば、団地敷地内の雑品倉庫に許可なく住み着いたことである。  だが、雑品倉庫は管理会社の所有であり、入居者のものではない。ホームレスの行為は特定施設の不法占拠、あるいは住居侵入に当たるものであるが、管理会社はホームレスに対して退去するように申し渡していない。  団地構内の公園は市の管理下にあり、だれが入ってもかまわない。ホームレスに過敏になっていた入居者が、無抵抗の彼を袋叩きにして殺害した行為は、立派な殺人罪を構成する。  だが、入居者たちには罪の意識はかけらもないらしい。不潔で、素性も明らかではないホームレスが、団地構内に住み着いただけで、入居者にとっては脅威となった。  彼らにしてみれば正当防衛か、少なくとも自救行為の意識である。  しかし、H市署としては、被害者が自ら市民としての権利や責任を放棄したホームレスだからといって、差別をするわけにはいかない。H市署に捜査本部を設けて、捜査を開始した。  容疑者は団地の全入居者である。  鶴川奈美江が団地から逃げ出そうとした矢先に、ホームレス殺害事件が発生して、入居者は全員、例外なく足止めを言い渡された。 [#改ページ]  |道をはず《オフロード》した証拠     1  犯人はおおかた推測がついている。事件の構造そのものは単純である。だが、多すぎる犯人は団地の自衛という強い連帯意識に結ばれ、警察の捜査に対して固い黙秘を通した。  捜査本部もこれまでの捜査とは勝手がちがって、面食らっていた。  通常の殺人事件は、死体の発見と共に被害者を確認し、身許不明の場合は身許を割り出し、被害者の生前の人間関係から動機を探る。  だが、この殺人は団地入居者のホームレスアレルギーが動機と考えられていた。もし団地の全入居者が犯行に加わっているとすれば、犯人は数十人になる。  直接、実行行為に加わらなくとも、全入居者が犯行に関わっている疑いは濃厚である。  全入居者の共同犯行であれば、その連帯意識も強く、黙秘の壁は厚い。共犯としての連帯意識に、姥捨山に捨てられた同志としての下地がある。  高齢者の多い入居者は、それだけ甲羅を経ている。警察の追及をのらりくらりと躱《かわ》して、一向に要領を得ない。都合が悪くなるとぼけた振りをする。 「手に負えねえな、まったく」  池亀がぼやいた。 「本当にぼけているのかもしれんよ。自分たちのやったことを忘れてしまっているのかもしれない」  増成が言った。 「都合の悪いところはみんな忘れてやがる」 「あの連中がみんな犯行を自供したら、刑務所は老人ホームになっちまうね」 「死体の傷は多数の共同犯行であることを物語っているが、犯人にしてみれば、だれの攻撃が致命傷になったかわからないだろうな」 「それだよ。そのことがずっと気になっていたんだ」 「そのことって?」 「だれが止《とど》めを刺したかわからなければ、初めからそれを隠れ蓑《みの》にして、大勢の犯行の中に隠れることができる」 「なんだって?」  池亀がじろりと目を剥《む》いた。 「大勢で一人を袋叩きにする場合、全員が殺意を持っていたとは限らない。殺すつもりがなくて犯行に加わった者の方が多いだろう。その中に明確な殺意を持っている者が混じっていれば、多数の犯行の中に隠れられる」 「つまり、ホームレスを殺そうとして狙っていた者が、多数の犯行を隠れ蓑にしたと言うのかい」 「そういう可能性も考えられるだろう」 「世間のしがらみを切り離したホームレスを殺したところで、仕方がないだろう」 「切り離したつもりのしがらみを、引きずっていたかもしれないよ」 「なんだか、おれもそんな気がしてきたよ」  池亀が増成のペースに引き込まれてきた。 「推測にすぎないがね、初めから団地の住人の共同犯行と見立てるのは危険だ」 「しかし、被害者の身許がわからないことには、捜査が立ち上がらねえな」  捜査の第一歩は、被害者の身許の割り出しである。被害者の遺品が綿密に調べられていた。  遺品といっても、旅行バッグの中に乱雑につめ込まれたがらくたばかりである。  汚れた衣類、拾った雑誌類、洗面用具、欠けた食器、街頭でもらったらしいティッシュペーパー、百円ライター、十数枚の野仏を撮影した写真などである。身許を割り出す手がかりになるようなものはなかった。  せっかくの増成の着眼であるが、複数の犯行を隠れ蓑にしての特定の殺意の存在は、どうやら考えすぎのようである。  遺品の中で最も手がかりになりそうなものは、写真である。だが、人物の写った写真は一枚もなく、路傍の道祖神や野仏が撮影されていた。  繰り返し写真を観察していた増成の目が、急に光った。 「亀ちゃん、この写真を見てくれ」  増成は一枚の写真を抜き取って、池亀の前に差し出した。他の写真同様、石の野仏が撮影されている。 「この写真がどうかしたのかい」 「右の端の方に猫がいるだろう」 「うん、猫が写っているな」  池亀が興味のなさそうな表情で言った。彼は前から、そこに猫が写っているのに気がついていたようである。 「その猫、見たような気がしないか」 「見たような気が?」  白い毛に菱《ひし》型の黒い毛が混じっている。 「菱型の黒い毛が背中に二ヵ所もあるよ」 「そう言われれば、どこかで見たような気もするな」 「豊島勝治の飼い猫がそんな毛並みをしていなかったか」 「そうか。そういえば豊島の飼い猫は、白地に菱型の黒い模様を二つ背負っていたな。この近所で撮影したんだな」 「撮影年月日が写し込まれている。昨年の五月十日となっているよ。この写真の持ち主がこの界隈《かいわい》に現われたのは、半月ほど前だというぜ」 「なんだって」  池亀がはっとしたような表情をした。だが、まだ増成の言葉の重大な含みがわからない。 「つまり、この猫は飼い主の豊島が移転する前に撮影されたことになる。猫の行動範囲はそれほど広くない。だから、この猫は豊島の前の住居で撮影されたことになるんじゃないのかな」 「すると、あのホームレスは豊島の以前の住居の近くから来たということになるのかい」  ようやく池亀が増成の言葉の含みを悟った。 「あのホームレスがどんな経緯でこの写真を入手したのかわからないが、少なくとも彼は団地へ来る前に、豊島の以前の住所の近くに行った可能性があるね」 「写真は撮影場所の近くへ行かなくとも、手に入るよ」 「撮影者から写真をもらったか、あるいは撮影者がどこかに置き忘れたものを、ホームレスが拾ったという可能性もあるだろう。だが、この写真を持っていたという事実は、彼が撮影者、あるいは撮影場所になんらかの関わりを持っていたことを示すものではないかな。ホームレスが豊島勝治の以前の住所地に関わりを持っていたことは、見過ごせないね」 「猫が豊島の飼い猫かどうか確かめてみようじゃないか」  池亀も増成の着眼に興味を持ってきたようである。 「飼い主が寝たきりになってから、野良の仲間入りをして、団地の敷地の中をうろうろしていたよ。探せば見つかるだろう」  早速、二人は団地の構内を、猫を探して歩いた。  野良猫の居場所はおおむね定まっている。時どき縄張りを争い合って喧嘩《けんか》もするが、たいていグループをつくって生活をしている。  白地に菱型の黒い紋様をつけた豊島の飼い猫は、すぐに見つかった。少し痩《や》せて毛並みも汚れていたが、元気なようである。  元飼い猫だっただけに、他の野良猫と比べて人間を恐れない。  二人が近づくと、餌でもくれるのかと勘ちがいしたらしく、先方から歩み寄って来た。  汚れた毛並みを足許にすり寄せて来る。すでにいない飼い主の首輪を着けているのが、痛々しく見える。  至近距離から写真と実物を見比べた二人は、被写体が豊島の飼い猫であることを確認した。  撮影年月日はいくらでも修整できるが、日付を偽って撮影する必要はあるまい。写し込まれた撮影年月日は一応信用していいだろう。 「撮影場所を割り出して、その近辺でホームレスを見かけた者がいれば、彼はその界隈から来たことになるな」 「早速確かめてみようじゃないか」  二人の刑事は獲物を見つけた猟犬のような目をした。     2  増成と池亀はその写真を持って、玉川署の永井に会いに行った。豊島の以前の住所は、玉川署の管内である。  増成から写真を示された永井は、一目見るなり、 「この野仏は月見神社のそばにありますよ」  と撮影地を指摘した。 「月見神社ですって」  増成におぼろな予感があった。彼の予感は的中した。  さらに永井は、 「このホームレスならば、この界隈でよく見かけましたよ。たしか月見神社の境内を塒《ねぐら》にしていました。そのホームレスが豊島勝治や、鶴川一家の団地で殺されたとなると、これはなにかありそうですね」  永井の顔色が緊張した。  あのホームレスが月見神社から来たとなると、増成の着眼がにわかに真実味を帯びてくる。  これまで入居者に袋叩《ふくろだた》きにされたと推測されていた死因が、実は犯人の隠れ蓑であったかもしれない。 「増成さん、月見神社は豊島の月見場所でした。そのことから、彼が轢《ひ》き逃げを目撃したかもしれないと推測したわけですが、月見神社を塒にしていたホームレスの方が、もっと轢き逃げを目撃する可能性と確率が高いですね」  永井が言った。 「そうか。豊島が轢き逃げ犯人に口を塞《ふさ》がれたのではないかと疑いましたが、ホームレスも轢き逃げ犯人に殺された可能性が生じてきますね」 「そのためには轢き逃げ犯人が、豊島の移転先やホームレスの行き先を知っていなければなりません。そこで、矢沢恵子が轢き逃げ犯人ではないかという推測が導き出されたのですが、もしホームレスが轢き逃げ犯人を追跡して行ったのであれば、なぜ事件発生後一年数ヵ月も待ったのでしょう」 「鶴川奈美江の妹が暴走族に拉致《らち》されかけたでしょう。団地の住民パワーが暴走族をはね返したということで、かなり大きく報道されました。鶴川家の以前の住居も月見神社の近くでした。ホームレスは鶴川一家を知っていたかもしれませんよ。報道によって鶴川家の新しい住所を知って、追いかけて来たのかもしれない」 「なぜ、ホームレスが鶴川家を追って来たのですか」 「つまり……鶴川家のだれかが轢き逃げ犯人ということに……」  彼らはおもいがけない推理の行方に、愕然《がくぜん》として顔を見合わせた。  増成の報告に、捜査本部は色めき立った。捜査会議では、轢き逃げと鶴川家を結びつけるのは短絡であるとする意見が出された。  あのホームレスが団地へ来たのは、必ずしも鶴川家を追跡して来たとは限らない。ほかの目的かもしれないし、風の吹くままに偶然やって来たのかもしれない、という意見である。  だが、ホームレスが月見神社を塒とし、鶴川家の前住所がその近くにあったことは見過ごせない。  しかも、豊島勝治は死因の曖昧《あいまい》な死に方をしており、鶴川正明は幼女の用水路転落工作を自供している。  豊島との関わりから、轢き逃げ容疑者に挙げられた矢沢恵子は、所在不明をつづけている。  増成は捜査会議において、さらに爆弾発言をした。 「矢沢恵子の失踪は、月見神社の轢き逃げに関わっているのではないかと疑いましたが、轢き逃げ犯人は一人と断定されたわけではありません。私は矢沢は犯人の車に乗っていたのではないかと、かねてから疑っていたのですが、鶴川家のだれかを運転者の位置に置いてみたらどうでしょうか」  増成の発言に、捜査会議が騒然となった。  すでに矢沢恵子は運転免許証を持っていないことが確認されている。すると、矢沢が犯人の車に同乗していたことになる。  鶴川正明は十四歳の少年で、免許取得年齢に達していない。すると、残りの家族三人が轢き逃げ容疑者の列に並ぶ。 「団地入居以前に、鶴川家と矢沢の間にはなんのつながりもないが……」  捜査責任者の管理官が言った。 「鶴川家と矢沢の団地入居以前の関係は、まだ調べられておりません。鶴川家と豊島勝治は入居前の住所が近所でした。偶然か、誘い合わせて入居したのか、確かめておりませんが、鶴川家と矢沢の間に入居以前のつながりがあったとしても、不思議はありません」 「写真はどこででも手に入るが」  そのことについては、すでに増成と永井の間で検討されている。 「ホームレスが月見神社を塒にしていたことは、無視できないとおもいます。ホームレスは塒を中心として、行動半径が限られています。彼が月見神社から遠く離れた場所で、猫の写真を入手した可能性は少ないとおもいますが」  増成の言葉に、おおかたのうなずく気配が感じ取れた。  もし増成説が的を射ていれば、鶴川家は豊島勝治の死、矢沢恵子の失踪、およびホームレス殺しにも関わってくる可能性が生じてくる。  豊島勝治とホームレスは、月見神社で轢き逃げの現行場面を目撃しているかもしれない。  犯人の車に同乗していた矢沢恵子が、犯人の指示を受けて、まず豊島勝治を介護する振りをして殺した。  時を同じくして発生した暴走族ワイヤー殺傷事件は、豊島殺しの絶好の隠れ蓑となった。  だが、轢き逃げ犯人にとっては、矢沢恵子は知りすぎた女として、新たな脅威となった。  こうして矢沢恵子を消したが、第二の目撃者のホームレスが団地まで追跡して来た。そこで犯人は入居者のホームレスアレルギーを煽《あお》り立て、第二の目撃者を袋叩きにして抹殺した。  ホームレスの遺品の中に猫の写真がなければ、ホームレスと鶴川家のつながりは発見されず、完全犯罪となったはずであった。  捜査本部は増成の発見を重視した。ここに、玉川署と緊密な連携の下に、鶴川家の内偵捜査が決定された。  鶴川家の家族四人のうち、運転免許証を取得している者は戸主の鶴川正一と、長男の正彦の二人である。  だが、正彦は入居後免許証を取得しており、轢き逃げ発生当時はまだ免許を持っていなかった。  また正彦と矢沢の年齢差から考えて、正彦が轢き逃げの主犯像としては無理があった。  ここに容疑対象は鶴川正一一人に絞られた。  鶴川家は排気量の大きいオフロードカーと、一六〇〇ccの普通乗用車を所有していた。オフロードカーは正一の趣味であり、普通乗用車は団地入居後、正彦の通学用に購入された。  オフロードカーは山谷|跋渉用《ばつしようよう》の、戦車のような車体を持った頑丈な車である。  ボディにラリー仕様を施し、前部にアニマルガードと称する頑強な丸型バンパーを付けている。このバンパーは衝撃を一ヵ所に吸収してしまう。  この車が人体と接触しても、車体はほとんどダメージを受けないだろう。修理に出す必要もない。  血で汚れた部分を洗い落とせば、家族も気がつかない。  犯行車は普通車ではない。また普通車は団地入居後に購入したものである。  だが、肉眼で見えなくとも、血痕《けつこん》や人体の組織片は水で洗ったくらいでは洗い落とせるものではない。 「車に血痕検査を実施して、陽性反応を呈すれば、動かぬ証拠となるな」  池亀が張り切った。 「そうは問屋がおろさないよ。おそらく強い水圧で洗い流しているだろう。極微量の血液では、血液種属(人間の血か動物の血か)の判定ができない。犬か猫を轢いたと言われれば、それまでだよ」 「犬か猫ねえ。それでも、なにも轢いてないのよりはましだろう」 「それはそうだ。車は交通犯罪の最大の証拠物件だからな」  内偵捜査によって、意外な事実が判明した。     3  矢沢恵子の書棚に並べてあった本のページを一枚一枚繰って改めていた増成は、その中の一ページに興味ある文字を見つけた。  それは「蚊取線香」と誌名の刷られた俳句の同人誌らしい。  同人の投稿句が掲載されているが、その中に「はるかなる我が家もなくて年の暮」という一句があった。作者名は矢沢|小雨《こさめ》となっている。  そして、その隣りに「除夜を聞く居場所を探す居候」という川柳めいた一句が並べられ、作者名は鶴川正一とあった。  同姓同名かもしれないが、矢沢小雨と並んでいるのが気になった。  矢沢小雨は矢沢恵子の俳号《ペンネーム》ではないのか。矢沢恵子に俳句の趣味は意外であるが、俳句の同人誌を保存していたところを見ると、矢沢小雨は彼女である可能性が高い。  そして、鶴川正一が同姓同名の別人でなければ、二人の間に俳句同人誌を介して接点が生ずる。  雑誌の最終ページには、同人のリストが掲載されている。だが、その中には矢沢と鶴川の名前はなかった。おそらくリストにはレギュラーの同人だけが記載され、不定期の投稿者は含まれないのであろう。  増成は雑誌の奥付に書かれていた発行者に問い合わせた。 「矢沢小雨さんと鶴川正一さんは不定期の投稿者です。以前は時どき句会にも顔を見せましたが、移転されたとかで、その後は見かけませんね。移転後、作品の投稿もありません」 「矢沢小雨さんは俳号だとおもいますが、本名をおしえていただけませんか」 「矢沢恵子さんです」 「鶴川正一さんは……」 「鶴川さんは本名です。彼の作品は、俳句というよりは川柳に近かったですね。期せずして二人の作品が居所をテーマにしていたので、面白いとおもって、並べて掲載しました」 「二人の移転先はわかりますか」 「いいえ、その後、連絡がありませんので」 「念のために、二人の移転前の住所をおしえていただけませんか」  矢沢恵子は目黒区|祐天寺《ゆうてんじ》、そして鶴川正一は世田谷区の外れで、H市の団地入居前の住所と一致した。  そして、増成が伝えた二人の人相、特徴に、「蚊取線香」の不定期投稿者であった矢沢小雨と鶴川正一は一致した。  発行者は二人が何度か句会に同時に出席した事実を認めた。  矢沢恵子と鶴川正一の間には接点があった。 「はるかなる我が家もなくて年の暮、除夜を聞く居場所を探す居候、か。居候は粗大ゴミと置き換えてもいいな。こんな二人が、はるかなるマイホームで再会したというわけだ」  増成は言った。 「しかし、二人とも以前知り合いだったことを隠していたのは、過去に二人共通の後ろ暗いところがあるということだろうね」  池亀が言った。  ここに捜査会議において、鶴川正一の車の捜査および同人に事情を聴くことに意見が一致した。  鶴川にかけられた容疑は、玉川署管内で発生した轢《ひ》き逃げ事件にも関わっているので、事情聴取には玉川署から永井も参加することになった。  H市署に出頭して来た鶴川は、緊張していた。 「わざわざご足労いただきまして申し訳ありませんな。少々お尋ねしたいことがありましたので、お宅や勤め先へうかがうよりは、こちらへご出頭いただいた方がご迷惑をかけないとおもいましてね」  増成は鶴川の緊張をほぐすように柔らかく言った。だが、その言葉裏には、勤め先や自宅では聞けないような内容であることを暗示している。  増成のさりげない恫喝《どうかつ》に、鶴川はプレッシャーを受けたようである。 「どんなことでしょう。私の知っていることであれば、なんなりとお答えいたします」  鶴川は弱味を見せまいとするかのように、平静を装って言った。 「まず、お尋ねしますが、あなたと同じ棟の一四〇三号室の矢沢恵子さんですが、団地に入居前にお知り合いではありませんでしたか」  増成はそろりと詮索《せんさく》の触手を進めた。 「いいえ」  鶴川は最小限の言葉で答えた。言葉|尻《じり》を捉えられないように、言葉をできるだけ節約しているのであろう。 「実はこういうものを見つけましてね」  増成は鶴川の前に「蚊取線香」を差し出した。鶴川の表情が少し動いた。 「俳句の同人誌ですが、この中にあなたと矢沢さんの作品が肩を並べて掲載されているのですがね」  増成はその箇所を開いて、指で示した。鶴川の表情が強張《こわば》った。 「いかがですか。この句はあなたと矢沢恵子さんの作品ですね」 「さあ、たまたま作品が一緒に掲載されただけで、だれの作品か、べつに関心はありませんので」 「発行者に問い合わせましたところ、あなたと矢沢さんは何度か句会でご一緒だったそうですが」  鶴川は警察がそこまで調べていることに衝撃を受けたらしい。 「句会には何度か出席したことがありますが、特に紹介されたわけではないので、知り合いと言えるかどうか」 「ほう、しかし、同じ団地の、同じ棟の入居者として再会したのであれば、気がついたのではありませんか」 「忘れていました。矢沢さんの方もなにも言わなかったので、忘れていたのだとおもいます」  鶴川はあくまでもしらを切り通そうと決意したようである。 「矢沢恵子さんは長期間、所在不明になっていますが、彼女の行き先になにかお心当たりはありませんか」 「ぼくにそんな心当たりなんかあるはずがないでしょう。矢沢さんとは同じ棟に入居しているというだけで、おつき合いはありません」  鶴川は少し色をなして言った。 「矢沢さんとはまったくおつき合いはなかったのですか」 「それは同じ棟に住んでいるのですから、顔を合わせれば挨拶《あいさつ》ぐらいは交わしますが、それ以上のつき合いはありません」 「過日、団地内でホームレスが死にましたね」  増成は質問の鉾先《ほこさき》を変えた。 「ああ、そんな事件がありましたね」  鶴川は無関心を装った。 「大勢に寄ってたかって袋叩《ふくろだた》きにされたといった状況でした。あなたはホームレスが袋叩きにされたと推定される当夜は、どこで、なにをしておられましたか」 「それはずいぶん失礼な質問ですね。ホームレスが死のうと、ぼくにはまったく関係ありませんよ」 「団地の構内で袋叩きにされて、殺されていたのですから、入居者全員に聞いていることです。ご協力いただけませんか」 「家で寝ていたとおもいます」 「そうでしょうね。町から遠く離れているし、遊び場所もない。入居者たちは皆さん、夜が早いようです。  ところで、あなたは殺されたホームレスに以前会ったことはありませんか」 「いいえ。ホームレスに知り合いはいません」  鶴川は憮然《ぶぜん》として答えた。 「これをご覧ください」  増成は鶴川の前に、ホームレスが持っていた猫の写真を差し出した。鶴川は訝《いぶか》しげな視線を向けた。 「猫が写っていますね。この猫に見おぼえがありませんか」  増成が鶴川の記憶を促すように言った。 「さあ」  鶴川は増成の質問の真意を測りかねているようである。 「平凡な日本猫ですが、毛並みに特徴があります。白地に菱《ひし》型をした黒い模様を二つ背負っています」  そう言われても、鶴川にはおもい当たらないようである。 「一一〇八号室の豊島さんの飼い猫ですよ」 「豊島さんの猫ですか。そう言えば、こんな猫が構内をうろうろしていたようです」 「ところが、この写真の撮影場所は団地構内ではありません。あなたの以前のご住所の近くにあった月見神社のそばです」 「月見神社のそば」 「撮影年月日にご注目ください。昨年の五月十日となっており、あなたの団地入居前です」  鶴川には増成の言葉の重大な含みがわからないようである。 「豊島さんも以前、月見神社の近くに住んでいたことはご存じですね」  鶴川は仕方なさそうにうなずいた。  豊島が保存していた手鞠《てまり》から手繰られて、幼女用水路転落工作を正明が自供したので、豊島の前住所を知らないとは言えなくなっている。 「つまり、月見神社で撮影した猫の写真をホームレスが持っていたということは、彼も月見神社|界隈《かいわい》から来たことになります」 「だからといって、私がホームレスを知っていることにはならないでしょう。写真なんかどこででも手に入ります」  鶴川は捜査本部で討議されたことを抗弁に用いた。 「ところが、あのホームレスは月見神社を塒《ねぐら》にしていたのです。ホームレスは月見神社界隈では顔を知られていたそうです」 「仮にその界隈ですれちがっていたとしても、ホームレスには興味がありませんので、顔なんか見ませんよ。むしろ目を背けます」 「なるほど。実は、この写真が撮影されて少し後の五月二十三日、深夜、月見神社の近くで轢き逃げ事件が発生しました。ホームレスはその轢き逃げを目撃した可能性があります」 「そ、そ、そんなことが、おれにどんな関係があるというのだ」  鶴川の言葉遣いが崩れた。 「加納良子《かのうりようこ》という当時二十一歳のOLが被害者ですが、脳挫傷《のうざしよう》と全身強打で死亡しました。そのとき加害車両を運転していたのは、あなたではありませんか」  増成は一気に核心に迫った。 「なにを根拠に、そんなことを言うんだ。とんでもない言いがかりだ。人権侵害で訴えるぞ」  鶴川は声の抑制を外した。 「そのとき加害車両に同乗していたのが、矢沢恵子さんと推測されています」  増成は取り合わずに言った。 「矢沢さんとはつき合いはないと言っている」 「あなたの家の車を調べさせていただきました」  かたわらに控えていた永井が口を開いた。 「なんだって」  鶴川がぎょっとしたような表情をした。 「もちろん捜索令状は取っています」 「調べたければ、なんでも調べるがいい。疚《やま》しいことはなにもしていない」  鶴川は表情をつくって立ち直った。 「車体の前部にわずかな損傷がありますね」 「当然だろう。オフロードカーだよ。道のないところを走りまわる。岩や木の根に当たって、満身傷だらけだ」 「前輪からルミノール反応が陽性を呈しましたよ。つまり、血痕《けつこん》が付着していたのですね」 「山の動物を轢いたことがある」  鶴川は予想された通りの抗弁をした。わずかな血液からは血液種属は判定できない。それに動物や魚の血でも人血と判定されることがある。 「車内に猫の毛が付着していました」 「猫の毛?」  鶴川の面に不安の色が薄く塗られた。 「ただの猫ではありません。比較検査をしたところ、豊島さんの飼い猫の毛と判定されました。長いこと寝たきりになっている老人の飼い猫の毛が、どうしてお宅の車の中に付着していたのですかな」  永井の口調が皮肉っぽくなった。 「そうだ、家内が何度か豊島さんの家に食べ物を運んで行ってやったから、そのときに付いたのかもしれない」  鶴川はうまい口実を考えだした。 「奥さんにも聞きましたが、奥さんは豊島さんの亡くなるだいぶ前に、二、三度様子を見に行っただけだそうです。猫の毛はそれほど古いものではありません」  警察の触手がすでに彼の妻にまで伸びていることに、鶴川は彼にかけられた嫌疑が容易ならないものであるのを悟ったようである。 「だったら、矢沢さんを介して猫の毛が運ばれたんだろう。矢沢さんは豊島さんの身の回りの世話をしていたから」 「矢沢さんとはおつき合いがないと聞きましたが」 「同じ棟の入居者だから、町へ行くときなど、車に同乗させたことはある」 「同乗ねえ」  永井が口辺に薄い笑いを浮かべた。見ようによってはほくそ笑んだように見える。 「車内とは言っても、普通の車内ではありませんでしたよ」  永井は言葉を追加した。 「普通の車内ではない……?」  鶴川の面を塗った不安の色が濃くなっている。 「猫の毛はトランクルームから発見されました。矢沢さんや奥さんが同乗したとしても、トランクルームなんかに乗ったのですか」  鶴川の面が蒼白《そうはく》になった。 「オフロードカーにはトランクルームはないよ」 「だれがオフロードカーと言いましたか。乗用車の方のトランクです」 「……」 「トランクから発見されたものは、猫の毛だけではありませんでした。矢沢さんの毛髪も数本、一緒に採取されましたよ」  永井が止めを刺すように言った。     4  鶴川正一は犯行を自供した。 「矢沢恵子とは、『蚊取線香』の句会で知り合ってからつき合っていました。昨年五月二十三日深夜、恵子をオフロードカーに同乗させて月見神社の側道を通りかかったとき、突然、女が車の前に飛び出して来ました。まるで自殺でもするように飛び出したので避けきれず、接触してしまいました。驚いて車を停め、様子を見ると、目や鼻や口から血を出して、一目で絶望的だとわかりました。  そのとき、恵子が逃げようと言いました。私は初めての人身事故に動転して、正常な判断力を失っていました。恵子に言われるままに、女をその場に放置して逃げてしまいました。  恵子がその夜、私の車に同乗して、私の家の近くまで来たのは、恵子が私の住んでいる家を見たいとせがんだからです。事故の後、恵子を車の拾えるところまで運んで降ろしました。  ボディの頑丈なオフロードカーであったので、損傷はほとんどなく、家に帰って洗車すると、まったくわからなくなりました。  恵子とはその後、たがいに敬遠し合うようになって、団地で再会するまでは会いませんでした。団地で出会ったときは、本当に驚きました。あれはまったく偶然による再会でした。  家内の手前、とぼけ通しましたが、あの団地ではもう一人、たがいに気がつかない再会がありました。それが豊島でした。豊島が、私たちが以前住んでいた近くから移転して来たとは知りませんでした。豊島も知らなかったようです。  豊島は、正明が近所の女の子を用水路に落とした現場は目撃していませんでしたが、落ちていた女の子の手鞠《てまり》を保管していたことから、刑事さんが不審を抱いて、正明が捕まってしまいました。  豊島は正明のしたことは見ていませんでしたが、私がOLを轢《ひ》いたとき、たまたま月見神社に月見に来ていて、轢き逃げの現場を見ていました。私はちょうど豊島の死角にいましたが、豊島は恵子の顔を見て、おぼえていました。  団地で恵子と再会した豊島は、彼女に轢き逃げの現場を見たと告げました。恵子は私に相談しました。私は団地から逃げ出そうかとおもいましたが、恵子が自分一人に罪をなすりつけて置き去りにすれば、すべてを警察に話すと脅しましたので、逃げるに逃げられませんでした。家内に団地から出ようと訴えられても出られなかったのは、そのためです。  豊島は金品は要求しませんでしたが、あの歳で恵子の身体を求めたそうです。そのうちに寝たきりになり、恵子に介護してくれなければ、すべてを警察に話すと脅して、恵子に身の回りの世話を強制しました。  たまたま暴走族が暴れまわっていた夜、豊島は恵子に同衾《どうきん》するように命じたそうです。同衾しても身体に触るだけですが、ぞっとして恵子は、おもわず豊島の鼻口を蒲団《ふとん》で塞《ふさ》いで、窒息させてしまいました。  たまたまその直後、暴走族が豊島の部屋に火炎ビンを投げ込んだのです。ワイヤーを張って暴走族を殺傷したのが、正明の仕業だとは知りませんでした。  豊島を殺した後、私に対する恵子の態度がにわかに大きくなって、妻と離婚して自分と結婚しろと要求してきました。言う通りにしなければ、轢き逃げも、豊島を殺したのも私の指示によるものだと警察に訴えると、私を脅しました。  妻からは一日も早く団地から逃げ出したいと責め立てられ、恵子からは早く離婚しろと責められ、進退|谷《きわ》まった私は、恵子の望む通りにするからと騙《だま》して誘い出し、乗用車の中で殺害して、死体を丹沢《たんざわ》山中に埋めました。  ところが、一難去ったとおもう間もなく、ホームレスが追いかけて来ました。ホームレスは豊島と同時に月見神社の境内から轢き逃げを目撃していたのです。彼の位置からは、豊島とは逆に恵子が死角に入り、私の顔がよく見えました。  彼は私たち夫婦の顔を知っていました。私たち一家が団地に移転してしまったために、しばらく私たちの行方を見失っていましたが、暴走族が妻とまちがえ、妹を拉致《らち》しようとして団地の住人に阻止された事件が報道されて、私たち夫婦の新住所を知って追いかけて来たのです。  ホームレスはべつになにを要求するわけでもなく、私に自首を勧めました。もし自首しなければ警察に訴えると言いました。ここで彼の要求に屈すれば、豊島や恵子の死が無意味になってしまいます。  ちょうど入居者の間にホームレスアレルギーが高まっていました。私はそれを煽《あお》って、その夜、ホームレスを袋叩きにしたのです。だれの打撃が死因になったかわかりません。ホームレスがよけいなお節介さえしなければ、彼は死なずにすんだのです」  鶴川正一の自供に基づいて、丹沢山中を捜索し、同山域の山林中に埋められていた矢沢恵子の死体が発見された。  鶴川の自供によって、一連の事件はすべて解決した。  一連の事件の意外な真相に、最も深刻な衝撃を受けたのは、奈美江であった。 [#改ページ]  完全な毒素     1  彼女の夫は轢き逃げ、矢沢恵子およびホームレスを(入居者と共同して)殺害した犯人、息子は幼女を用水路に落とし、暴走族ワイヤー殺傷の犯人であることを自供した。  四人家族中、夫と次男の二人を凶悪犯罪の犯人として司直に逮捕された彼女は、救いがない。  奈美江は二人を奪ったのは、団地だとおもった。  この団地には凶悪な魔性が潜んでいる。その魔性が、善良な入居者を狂わせていく。この団地は一見、自然の豊かな理想的な環境にありながら、人間の心身を深部から破壊していく毒素を持っている。夫も正明も、その毒素に冒されたのだ。  冒されたのは二人だけではない。矢沢恵子も、豊島勝治も、ホームレスも、心中した深井ミノと村岡秀紀も、そして暴走族も、団地の魔性に捕らえられ、毒素に冒されたのである。  残っている入居者たちも、すでに毒素に感染しているであろう。毒素に対する有効な治療法はただ一つ、団地から逃げ出すことである。  とりあえずビジネスホテルにでも泊まって、新たな居所と当座の職を探す。もはやえり好みを言ってはいられない。団地の毒素に全身冒される前に、脱出しなければならない。  奈美江は正彦がいやだと言えば、自分一人ででも出て行くつもりであった。  彼女が当座入り用な品をまとめていると、H市署の増成という刑事が訪ねて来た。何度か事情聴取に来て、顔をおぼえてしまった。 「実は奥さん、困ったことが起きました」  増成は本当に困惑したような表情をしていた。 「私はもうこれ以上、困りようがありませんわ」  増成に夫と子供を逮捕された奈美江にとって、彼は不倶戴天《ふぐたいてん》の仇《かたき》である。  あなたのおかげで、一家がこんなに困った状態に陥れられたのだ、と、彼女は言外に精一杯の抗議を込めた。  彼女の抗議がわかったのかわからないのか、増成は困惑の色を深めて、 「実は、ご主人に轢き逃げされた被害者の体内にAB型の精子が証明されまして、被害者は生前、情交あるいは凌辱《りようじよく》されたと推測されています。被害者の指先には情交相手、あるいは凌辱犯人のものとおもわれる毛髪が数本、からみついておりました。その毛髪と同一人物のものと認められる毛髪が、ご主人の車内から発見されたのです」 「なんですって」  奈美江には刑事の言葉の意味が咄嗟《とつさ》に理解できなかった。理解できないながらも、彼の言葉が彼女に重大な関わりを持っていることはわかった。 「ご主人と正明君の毛髪とはすでに対照させてもらいました。しかし、いずれの毛髪とも符合しませんでした。残るのは、奥さんとご長男の毛髪ということになりますが、すでに女性の毛髪ではないことがわかっております」 「あの車に乗った人は、私たち家族だけとは限りません」  奈美江は、ようやく増成の言葉の意味を理解して、必死に抗弁した。 「もちろんそうです。しかし、マイカーに遺留された毛髪は、やはりご家族のものである確率が最も高いと考えてよいでしょう。あらぬ疑いを晴らすために、ご長男の毛髪を協力という形で少々提供していただけませんか」  増成の言葉を、奈美江は奈落の底へ突き落とされる音として聞いた。  正彦の血液型はAB型である。  彼が最近、自室に閉じこもったまま、いかがわしいビデオを見たり、自慰に耽《ふけ》っている気配はそれとなく察していた。  若い男が一度はかかる麻疹《はしか》のようなものだとおもっていたが、異性にかけた妄想がいつ暴発してもおかしくはない年齢である。  正彦はあの夜、狼に変身して、若い女を牙《きば》にかけたのであろうか。  我が息子に犯された被害者が、恐怖と恥辱に逆上して逃げ出したところに、我が夫の車が疾走して来た。なんと恐ろしい因縁であろう。  ドアの開く気配がして、正彦が出て来た。彼はドアの内側で、母親と刑事の会話を立ち聞きしていたらしい。  正彦の顔色があの夜、月見神社で彼のしたことを最も雄弁に物語っていた。     2  正彦の自供によって、すべての事件が解決した。  だが、解決したように見えたのは、目に見える表層だけで、事件の根を培った深層の構造はなにも変わっていなかった。  奈美江はその事実をおもい知らされた。奈美江は家族のすべてを失った。家《ホーム》はすでに失ったも同然である。それは完全な喪失であった。たった一人になった奈美江が、身の回りの品だけ持って、いよいよ明日、団地から出て行こうとした前夜、突然、数人の入居者が訪問して来た。  自治会長以下、いずれも自治会の役員である。 「奥さん、この団地から出て行くという話を聞きましたが」  自治会長が言い出した。 「はい。いろいろお世話になりましたが、明日、とりあえず身体一つで出て行くつもりです。新しい住所が定まってから、改めてご挨拶《あいさつ》申し上げようとおもっていました」  奈美江は言った。 「奥さんに出て行かれては困ります」  自治会長が言った。 「でも、私はもうここにこれ以上、いるつもりはありません」  いれば、自分自身が毒素にやられてしまうという言葉は喉元《のどもと》に抑えた。 「私たちが出て行かせません」 「それはどういう意味ですか」 「奥さんに出て行かれては、団地がますます寂しくなります。ようやく自治会が結成されて、入居者がまとまりかけた矢先です。年寄りばかりのこの団地で、奥さんのような若い方の存在は、私たち老人の支えになります。どうかここに留《とど》まってください」 「そんなことを言われても、私はもうここに留まるつもりはありません。もう決めたことですわ」 「どうしても出て行くとおっしゃるなら、実力に訴えても、お引き止めしますよ」 「会長さん、一体、なにを言い出すんです。どこへ行こうと、私の自由ですわ。皆さんの指図は受けません」  奈美江は半ば呆《あき》れながら、会長以下、役員の顔を見まわした。だが、その表情から、彼らが真剣であるのを悟った。  奈美江は背筋に冷たいものが走るのをおぼえた。  同時に役員が数人立ち上がると、彼女の身体を押さえた。 「なにをするんですか」 「しばらく奥さんの身体を拘束させていただきます。決して危害は加えません。食物は私たちが交替で運びます。御用は当番が交替でつとめさせていただきます」  会長の言葉と共に、役員たちがあらかじめ用意してきたらしいロープを取り出して、彼女の手足を縛った。 「あなたたち、狂っているわ」 「団地を守るためです。ここを姥捨山《うばすてやま》にしないためにも、奥さんのような若い方が必要なのです。許してください」  会長の言葉と並行して、役員たちが屋内の窓や戸をロックした。 「玄関には当分不在と掲示を出しておきます。私たちの意図をご理解いただくまで、当分声を出さないでください」  会長が言うと、役員の一人が、彼女の口にガムテープを貼った。  そのとき奈美江は、彼らがすでに団地の魔性の虜《とりこ》にされ、その毒素に骨の髄まで冒されてしまったことを悟った。 角川ホラー文庫『ホーム アウェイ』平成18年7月10日初版発行